すみこは1926年(大正15年)4月、17歳になる年に晴れて東京音楽学校の門をくぐることが出来た。器楽部ピアノ専攻の学生となれた。しかし東京音楽学校では憧れの「田中規矩士先生」に師事出来たのか?実はそれは現在の所わからない。
すみこの著書『世界中にいろおんぷ』春秋社(1997)には、「学生時代は橘糸重先生でした」と語っている。(101ページ)同じように田中規矩士から受験した井口基成は高折宮次に師事したと書いているので、田中規矩士は自分が受験させた二人を他の先生に師事させたのかもしれない。
すみこ憧れの「田中先生」とのお付き合いはその後どうなっていたかもわからない。ただこの当時、東京音楽学校内では生徒間、教師間の男女交際に関して非常に厳しかったことが伝えられている。少しでも男女交際がバレると速攻で退学ということもあったようだ。ましてすみこの場合生徒、教師の間である。
例として二つほど。
井口基成は卒業後フランスに留学。帰国して東京音楽学校で教鞭を取ることになった。そんな頃、同僚であった井口秋子(旧姓澤崎)と付き合うようになった。井口秋子も東京音楽学校卒業後、ドイツに留学した優秀なピアニストであり、やはり東京音楽学校で教鞭を取っていた。「同僚同士で男女交際はまかりならない」という話になり、結局秋子が東京音楽学校を退職したのであった。(井口基成著わがピアノ、わが人生 : 音楽回想1977年より)
荻野綾子という声楽家がいた。やはり東京音楽学校を卒業後、フランスに留学。声楽とハープを学んで帰国した。帰国後東京音楽学校にて教鞭を取る。詩人の深尾須磨子との共同生活が有名である。日本で初めてリサイタルでフランス歌曲を歌った声楽家でもある。日本で最初期のハーピストでもあった。
しかし、同僚の音楽史の教師、太田太郎と恋に落ち、今で言う「できちゃった」婚をする。綾子と共同生活をしていた深尾須磨子が大騒ぎをしたこともあり、大スキャンダル。「同僚同士の男女交際はまかりならない」ということで、こちらは二人とも退職するのであった。(香月隆著『評伝まぼろしの歌姫荻野綾子第2刷』2014年より)
のちに自伝を書いた、この時代に東京音楽学校生徒であった方々は異口同音に「男女交際の厳しさ」を書いている。とくに1928年(昭和3年)から校長になった乗杉嘉壽校長が「非常に厳しかった」ということを伝えている。当時日本の官立の大学、旧制専門学校の中で男女共学は東京音楽学校のみであったことも、「男女交際」に神経質にならざる負えない部分があったかもしれない。(この当時北海道帝国大学、東北帝国大学、九州帝国大学、東京文理科大学、広島文理科大学が女子の受け入れをしていたそうですが、この女子はほんの数人。多くの女子学生の中に男子学生がいるというのは、東京音楽学校のみであったようです)
こんな中ですみこは自分の「恋」をどうしたのかは伝わっていない。ただ
「田中先生が私の弾くピアノの『音が好き』って言ってくださった」
ことのみ伝わっている。
すみこは自分の気持ちに正直な性格であった。そのすみこが「秘めたる恋」が出来ると筆者は思えないのだが。
どちらにしても真相は藪の中である。
1928年(昭和3年)2月。すみこが本科1年、そしてこの年の4月には本科2年になる年、(東京音楽学校は予科1年、本科が3年です。なので通算で言えば2年生と考えられます)憧れの「田中先生」は2月9日付けで助教授、2月10日に慌ただしく在外研究員としてドイツ国ベルリンに赴く。この留学直前にすみこと「田中先生」は婚約したと伝えられている。しかしこの結婚に関しては父、黒澤貞次郎は当初あまり「良い顔」をしなかったことも伝えられている。(『虹色のひらめき』97ページ、98ページ)〉
慌ただしく留学をした田中先生のことは、どうやら音楽学校内で話題になったようである。「田中先生の留学には黒澤すみ(すみこのこと)が関わっているらしい」という噂が立って同級生が真相を問いただしたという話が伝わっている。