田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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67.田中規矩士ものがたり補遺3 井口基成と永井進のこと

(2022年7月12日投稿)

旧宅に以下のようなレコードジャケットが残されていた。このレコードの詳細はわからないが、おそらく私家版か何かと思われる。追悼盤かもしれない。残念なことに中身は行方不明であった。


このレコードに永井進の経歴が書いてあり、それに「田中規矩士に師事」と書いてあった。
(以下引用)
「1929年(昭和4年)東京音楽学校に入学。1933年(昭和8年東京音楽学校卒業。1940年(昭和10年)研究科修了。福井直俊、田中規矩士、パウル・ワインガルテン、本科3年よりレオ・シロタに師事。」
福井直俊は1930年(昭和5年)に留学をする。そして同年田中規矩士がドイツから帰国。なので規矩士に師事したのは1930年(昭和5年)の本科1年から本科2年の間だと推測する。本科3年よりレオ・シロタに師事したのであろう。
パウル・ワインガルテンは「音楽取調掛と東京音楽学校の外国人教師たち」の記載によると1936年から1938年(昭和11~13)まで着任していた。なので卒業後に師事したと思われる。

 

archives.geidai.ac.jp

 


これらのことから永井進は本科1年、本科2年の時、田中規矩士に師事していたということがわかった。
田中規矩士追悼演奏会にも出演していて、伝承で「規矩士門下生」ということは伝わってはいたが、これで正式に師事していたということが証明されたと思う。

永井進の著名な門下生はやはり田村宏東京藝術大学教授。永井進は、「田村宏の自伝」、そして「畑中良輔(バリトン歌手。元東京藝術大学教授。音楽評論などでも知られた。田村宏の同級生)の各種の自伝」にも

永井先生は、東京音楽学校で1,2を争うオソロシイレッスンをする先生」

として書かれている。師匠である永井進譲りかどうかはわからないが、田村宏も「オソロシイレッスンをした」と伝わっている。(筆者はそう聞いていますが、違うご意見もあるかもしれませんね。)
田村宏は後年日本音楽界を代表する大勢のピアニストを育てた。戦後のピアノ界を牽引した大御所である。

同じ戦後のピアノ界を牽引した大御所、井口基成桐朋学園大学教授、後に学長は田中規矩士の弟子である。

ということは、田中規矩士の弟子が井口基成、田中規矩士の弟子永井進を通じて田村宏が孫弟子にあたる。戦後ピアノ界の大御所二人の源流に田中規矩士がいるということがわかった。
田中規矩士は正に「日本ピアノ界の礎」であったということである。
(田中規矩士経歴も訂正しておきます)

 

余談
永井進氏のもう一人の著名な門下生といえばピアニスト深沢(旧姓大野)亮子さんでしょう。15歳で日本音楽コンクールという日本一を決めるコンクールで優勝。深沢亮子さんの母が書いた『ピアノの日記』は、「優秀な少女ピアニストになるには、子ども時代をどのように過ごしたら良いか」ということを考える「我が子をピアニストにさせたい」親たちの指針となり、ベストセラーになりました。筆者の母もこの『ピアノの日記』を愛読。『ピアノの日記』に「朝6時に起きて学校に行く前に1時間2時間練習。そして学校から帰ってきてから『ピアニストのお父様』と練習。毎日きちんとコツコツと練習を重ねた」という記述があったそうです。真面目な母は「そうでなくては!」と思いこみ、「気が向くと練習するが、気が向かないとやらない」超気まぐれ性格な筆者に強要。筆者は深沢亮子さんではないので、「無理でしたっ!」(苦笑)←毎日親子喧嘩をしていたです。