田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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118.【田中規矩士ものがたり補遺6】原智恵子と田中規矩士、そして笈田光吉(リャプノフの楽譜)

(2024年12月7日投稿)

2024年11月、「生誕110年記念ピアニスト原智恵子を知っていますか」というレクチャーコンサートがありました。

 

このコンサートには原智恵子本人が残した遺品、そして門下生が大事にしていた所縁の品々も展示されました。

原智恵子(1914-2001)は神戸出身。13歳の時にパリに渡りパリ国立高等音楽院に入学。プルミエ・プリ(第一位)を取って卒業。1937年(昭和12年)第3回ショパン国際ピアノコンクールに参加。第15位聴衆賞を受賞。その後国際的な演奏活動を展開。その後神戸女学院大学音楽部主任教授。そして名チェリストガスパール・カサドとの再婚。ヨーロッパに在住。1990年帰国。2001年死去。(詳しいことは書籍を買って読んでください。まもなく改訂版と続編が出版予定です。)

【「原智恵子」【改訂版】  寺崎太二郎著】

【「組曲『音楽を旅する』」 寺崎太二郎著】

www.toukasha.com

展示された智恵子の遺品に以下のものがありました。

リャプノフ作曲《超絶技巧練習曲Op.11》の1曲目「子守唄」の楽譜。

セルゲイ・ミハイロビッチ・リャプノフSergey Michaylovich Lyapunov(1859-1924)
(ロシア語をアルファベットにする際、いろいろな流儀があるようである。この楽譜ではLiapounowとなっている)
リャプノフはロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。兄アレクサンドルは著名な数学者、科学者である。
モスクワ音楽院にてリストの門弟カール・クリントヴォルトに、作曲をタネーエフに師事。卒業後バラキレフに私淑。1911年にサンクトペテルブルク音楽院教授となるが、1923年、革命で混乱したロシアを去ってパリへ。同地のロシア亡命者の子息のために音楽学校を組織したが、その翌年に心臓発作により64歳で死去した。
曲風は中の人が弾いてみた感じ、リスト+ラフマニノフなどのロシア系÷2といった印象である。
現在一番弾かれている曲は、この超絶技巧練習曲Op.11かもしれない。

www.youtube.com

実はこれと同じ楽譜が東京音楽学校ピアノ科教授だった田中規矩士の遺品にもある。

田中規矩士遺品のリャプノフの楽譜

田中規矩士(1897-1955)神奈川県横浜市生まれ。東京音楽学校卒。ベルリンに官費留学をしてのちに東京音楽学校ピアノ科教授。戦後、東京女子高等師範学校教授、武蔵野音楽大学教授などを歴任。

ベルリンでは現在のベルリン芸術大学のピアノ科教授だったレオニード・クロイツァーに師事。

実はクロイツァーは、1910年にリャプノフ指揮で、パラキレフの「ピアノ協奏曲」の初演をしている。それ以外でもクロイツァーとリャプノフは親しかったのかもしれない。(親しかったという証拠は中の人は知りません。)

この田中規矩士の遺品のリャプノフの楽譜は使用感がある。書き込みがされているのだが、この書き込みはクロイツァーのものではないか?と推測します。

フレーズの入り口を”「”でくくるのはクロイツァー独自の方法であり、この楽譜もそれがあるので、規矩士がクロイツァーのレッスンを受けた?と推測するのです。

さて、同じ楽譜を持っていた原智恵子がこの曲を弾いたかどうかはわかりません。そしてこの楽譜には「K Oida」と書かれてある。「K Oida」とはピアニスト笈田光吉のことではないかと思います。

 

「K Oidaの所を拡大強調」

 

笈田光吉(1902-1964)ピアニスト・音楽教育家

慶応義塾大学を中退してベルリンに留学。レオニード・クロイツァーに師事。帰国後ピアニスト、そして音楽教育家として活躍。

1935年(昭和10年ナチスドイツに追われた師、クロイツァーを自宅にて世話をする。

その後「絶対音感教育の提唱者」としての活動が盛んになる。

「原智恵子 孤高のピアニストの生涯をたどる」の著者、寺崎太二郎氏によると、笈田光吉と原智恵子の兄に交流があるのだそうです。

笈田光吉はベルリンに留学。かの地でクロイツァーに師事します。笈田光吉がクロイツァーと交流がある?リャプノフの楽譜を日本に持ち帰った?それを交流のあった原智恵子の兄に伝えた?この兄は1936年(昭和11年)に亡くなったのでピアノの楽譜ということで智恵子が譲り受けた?

これは中の人の推測ですが、「当たらずといえども遠からず」ではないか?と思っています。

田中規矩士と笈田光吉は同じころベルリンにいて、クロイツァーに師事していました。お互い顔見知りです。ひょっとしたらリャプノフはクロイツァー門下ではよく弾かれていたのかもしれず。クロイツァー自身も弾いていたのかもしれず。

リャプノフは現代では知る人ぞ知る作曲家となってしまいました。中の人も少し弾いてみたことがあるのですが、とても綺麗な音使いの作曲家です。知る人ぞ知るではもったいないなと思いました。

さて、笈田光吉と田中規矩士は親しかったのか?田中規矩士が残した手紙ではどうもそうではないようで、「そりが合わなかったかな?」という内容の手紙が多く残っていました…。

人と人とのお付き合いなので「そりが合わない」のは仕方がないかもしれませんね。

そして原智恵子と田中規矩士。

彼女がフランスに向かったのは1928年(昭和3年)2月16日、田中規矩士がドイツに向かったのは同じ1928年(昭和3年)2月10日。どちらも日本郵船の船だったそうです。一週間違いでした。同じ船だったら面白かったのに!残念!規矩士は日本郵船熱田丸でした。

熱田丸の船上にて。デッキゴルフをする。

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最後に原智恵子と田中規矩士、二人はお互いを知っていたか?
推測ですが知っていたと思います。田中規矩士から見て原智恵子は「日本人初の海外で認められたピアニスト」として。とにかく真面目で謙虚だったと伝えられる規矩士は「日本人もここまで来たか」と感慨に耽ったかと想像しています。しかしベルリンから婚約者だったすみこに送った手紙には「もっとベルリンで勉強がしたい」と書かれていました。ベルリンに留学した時規矩士は31歳でした。13歳で渡仏して本場での修行をした原智恵子。感慨の中に「自分も彼女のように若い時代に本場で勉強がしたかった」という小さな嫉妬はきっとあったと思う。
そして原智恵子から見た田中規矩士。「ああ東京音楽学校の教授でしょ?それが何?」だったかと。

(「et alors」François Mitterrand(^^ゞ)