田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

まずは右側サイドバー(スマホタブレットはスクロール)の「はじめに」からお読みください。情報が順次更新されていますので、「更新記録」も読んでいただけますようお願い申し上げます。

115.【田中規矩士・たなかすみこ夫妻をめぐる人々】5 たなかすみこの長兄 黒澤敬一について

(2024年9月4日投稿)

2024年6月25日、ロンドンの大和日英基金(The Daiwa Anglo-Japanese Foundation)にてたなかすみこの長兄、黒澤敬一に関する講演会が行われました。

【The Daiwa Anglo-Japanese Foundation(大和日英基金)】

dajf.org.uk

【「黒澤敬一と日本における古楽」(Keiichi Kurosawa and Early Music in Japan)講演者:Jason James OBE】

https://dajf.org.uk/event/keiichi-kurosawa-and-early-music-in-japan

 

この模様はYouTube配信され、アーカイブされました。

www.youtube.com

(遠い日本からも聞くことが出来て、助かりました。良い時代となりました。)

 

たなかすみこは実業家黒澤貞次郎の次女として生まれました。

黒澤貞次郎氏は和文タイプライターの開発などで著名な実業家。家は裕福で、母、黒澤きくは音楽好き。その影響もあり、長兄敬一も音楽好き。家の中は音楽にあふれていたかと推測します。

たなかすみこの自伝『虹色のひらめき...をあなたも』シンコーミュージック1984年』によると、すみこに音楽の手ほどきをしたのは、母であるきくと長兄敬一であったそうです。

長兄敬一の名前のある音楽ノートにハノンか何かの指練習を書きこんだノートも残されていて、二人の音楽の交流があったのかと思わせる遺品もあります。

(左にKeiichi Kurosawaと書いてある)

 

黒澤敬一(1903―1982)

すみこが1909年生まれなので、6歳年長の兄である。

すみこと同じ東京市泰明小学校を卒業後、京都の同志社に進学をするようだが、スペイン風邪の流行もあって東京に戻り、明治学院に進学。1921年(大正10年)に英国留学。1923年(大正12年)の関東大震災では家業が大打撃を受けたが、彼はそのまま英国に滞在。同年王立音楽院(Royal Academy of Music)に入学、1年間チェロ(Mr. Whitehouse)、ピアノ (Mr. Morton)、和声学(P. Corder)、ダンス (Mdme La Foy)、朗読法 (Mr. Cole)を学び、新曲視唱で銅賞を受賞して卒業をした。

1925年(大正14年)10月、ケンブリッジ大学トリニティカレッジに入学。1928年(昭和3年)の卒業。この間、音楽活動も盛んにしていたようだ。

英国ではこの当時、アーノルド・ドルメッチらによる「古楽器復興」や、16~17世紀エリザベス朝に流行した声楽のアンサンブル「マドリガルの演奏」や、パーセルヘンデルのオペラ復活上演など、中世、ルネサンスバロック時代の楽器や音楽に興味を持つ人が増え、そして研究、実践された。敬一はその様子を間近で触れていたようである。彼は1925年(大正14年)夏、ドルメッチによる第一回ヘイゼルミア音楽祭に参加したようだ。この時の経験が彼の好む音楽の嗜好に大きな影響を及ぼすこととなったとのことである。

つまり敬一は、現在「Early Music」「古楽」と言われる分野の先駆けを見ていたと思われる。

この当時、この分野の最先端を見ていた日本人がどれだけいたのか?おそらく非常に少なかったのでは?と推測する。19世紀ドイツ音楽が主流の東京音楽学校が日本の音楽界をけん引していた。そんな時代でもある。

英国はケンブリッジ大学で、勉学に音楽に大活躍をする兄のことはすみこの自慢であったと思う。婚約をしていた田中規矩士先生に多く書き送っていたと思われる。規矩士の「ベルリン便り」にもこの規矩士から見た将来の義兄、敬一のことが記載されている。

1929年(昭和4年)帰国。この帰国の時の話をどうやらすみこが規矩士に書き送ったようで、規矩士の手紙にも触れられている。

tanakairoonpu.hateblo.jp

tanakairoonpu.hateblo.jp

 

日本に帰国後、家業の黒澤商店に入店。家業の傍ら音楽活動にも従事。東京マドリガルクラブの活動の他、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバチェンバロなどを奏し、日本における古楽受容、普及に多大な貢献をした。

特筆すべき話は、英国最大の作曲家の一人、ベンジャミン・ブリテンがパートナーのテノール歌手、ピーター・ピアーズと共に1956年(昭和31年)に来日した折にアテンドをし、彼に能を見せた。この能の観劇はのちに「カーリュー・リヴァー」という作品に結実した。

敬一率いる東京マドリガルクラブはブリティッシュカウンシルのカクテルパーティーで、ブリテン、ピアーズと共に一緒に歌ったそうである。

詳しいことはこちら。

【「日本古楽史研究会 HOMEPAGE」】

umeoka-gakki.music.coocan.jp

こちらのWebサイトでは英国時代の大活躍な敬一の話、そして帰国後の敬一の音楽活動の話が掲載されています。現在は1934年まで。今後もいろいろな活動の記録がなされていくと思います。

どのような話が飛び出すのか、とても楽しみです。

長兄黒澤敬一と妹、たなかすみこ(旧姓黒澤すみ)

左、黒澤敬一。右たなかすみこ(旧姓黒澤すみ)「田中規矩士を偲ぶ会」にて。(1965年昭和40年)

 

 

 

(余談)中の人が小学生の頃、合唱で「野辺~に咲く花は それヘイそれホウそれヘイ」と歌っていました。小学生だったので英語ではなく日本語訳で歌っていました。

その古い本を引っ張り出してビックリ!黒澤敬一訳でした!(曲はモーリーのIt was a lover and his lass)

中の人はその後音高音大と進学。敬一が生涯愛した「古楽」とは縁遠くなってしまったのですが、卒業後ご縁があって古楽沼へと入ってしまいました。毎年夏には「古楽音楽祭」でチェンバロを弾いたり、フォルテピアノ(18世紀ピアノ)を弾いたり、歌を歌ったりしていました。

たなかすみこ先生は何故かいろおんぷの関係者に「長兄が古楽受容に多大な貢献をした」ということを最晩年まであまり言いませんでした。なので関係者は長兄のことをあまりよく知らなかったのです。

それが遺品整理でこのことを知った。いろおんぷ出身で長じて古楽もやるようになった中の人、その奇遇に驚いたのでした。