94.【田中規矩士・たなかすみこ夫妻をめぐる人々】4 田中規矩士の恩師ウィリー・バルダス2
(2024年5月18日投稿5月23日加筆)
ピアニスト・ピアノ研究家の松原聡様より「ウィリー・バルダスはナポリで事故で亡くなったのでは?」というご指摘をいただきました。松原様ありがとうございます。
日本語のWikipediaには記述がありませんが、ドイツ語のWikipediaには「1924年9月、日本からベルリンへの帰国途中、ナポリで交通事故に遭い、頭蓋骨骨折を負った。」(Google翻訳による)とあります。ドイツ語Wikipediaには「Vossische Zeitung、1924 年 9 月 30 日、2 ページ。」とか「Siegmund Kaznelson: Juden im deutschen Kulturbereich. Jüdischer Verlag 1962, S. 181」とかの出典を挙げています。(え?バルダス先生はユダヤ出自だったの?)
東京藝術大学大学史史料室のウェブサイト「音楽取調掛と東京音楽学校の外国人教師たち」にもその記述がありません。
国立公文書館に以下の史料が残されているそうです。
【契約満期前帰国並給料及び帰国旅費繰上支給許可等 ウイリー・バルダス(東京音楽学校)】
この史料には
大正13年1月9日付け東京音楽学校校長から文部大臣宛て 「東京音楽学校外国人教師のウィリー・バルダスの契約は本年(大正13年)3月31日までですが、良い授業をするので8月31日まで契約延期願います。」
そしてこの件は許可されたようで、
「8月31日まで契約延期の契約を1月31日にした」とあります。
ところが
大正13年6月18日付け東京音楽学校長から文部大臣宛て「東京音楽学校外国人教師のウィリー・バルダスは本学期授業終了次第帰国するので、7月、8月分の月給と帰国旅費費用を繰り上げ支給を願います。」
大正13年7月3日付け「繰り上げ支給許可」とあります。
そしてこの史料の1枚目には付箋が貼ってあり、「繰り上げ支給許可。9月17日」と書いてあるようです。
この史料だけではよくわかりませんが、1924年(大正13年)にバルダス先生の契約がいろいろと動いたようです。(内容はすべて中の人が要約して書き換えました。)
規矩士の弟が日記に「バルダス先生が病気で規矩士兄が困っている」と書いたのが2月15日。この記述と同じ年にバルダス先生は亡くなっているので、中の人は「バルダス先生体調が悪いのかな?」と思いましたが、事故死という情報もあるとのこと。
弟が「病気」と書いたのが冬なので、それこそインフルエンザのような感染症にかかって長期に渡ってレッスンがなくて、それを規矩士がぼやいていたのを弟が「先生が病気でお兄さんが困っている」と書いたのか?
(余談ですが中の人は幼稚園の年長の時、1月末にインフルエンザにかかり、完治したのが3月でした。中の人が幼稚園のころはタミフルとかないので、自力の免疫力頼りなので、治るのに時間がかかりました。)
それとも本当に何かの病気だったのか?
真相は中の人にはわかりません。そもそもバルダス先生の契約が1924年(大正13年)に動いた理由も、今のところわかりません。
そして7月にバルダス先生が離日した時は元気だったとしても9月にナポリで事故死した、という話。おそらくその話は日本にも早いうちにもたらされたでしょう。
その話を聞いた規矩士はどう思っただろうか?おそらく驚きと衝撃だったでしょう。
切ないです。
しかしこの時代、今と違って日本とヨーロッパの間をホイホイ行ったり来たりは出来ません。離日してしまうバルダス先生と規矩士はこの後再会できるのか?バルダス先生の再来日はあるのか?規矩士がヨーロッパに行くことが出来るのか?大正13年の時点では全くわかりません。
離別は今よりも重い感情を伴い、下手すれば「今生の別れ」となる可能性も今より高いと思います。
あの写真はそんな想いもあるものだったかもしれない。だから大事に現在まで田中邸にしまわれていたのかもしれません。

(東京藝術大学 未来創造継承センター大学史史料室蔵。田中規矩士旧蔵)
松原様によればこのピアノはハンブルク・スタインウェイのO-180とのことです。この写真はどこで撮影されたのでしょうね?