田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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112.【田中規矩士・たなかすみこをめぐる人々】3 錦織さゆ里(にしきさゆり)「ピアノとともに―たなかすみこ先生との48年の日々」8 いろおんぷとたなかすみこに出会う~ディアパソン170号のグランドピアノを手に入れる~武蔵野音楽大学を卒業して小学校の音楽の先生になる~小学校の音楽の先生を辞めて「いろおんぷ」の先生になる。

(2024年8月12日投稿)

いろおんぷとたなかすみこに出会う

さゆ里「いろいろと就職試験を受けたんだけど、ことごとく落ちちゃって困っていたの。そこに学校のポスター掲示に「たなかすみこいろおんぷ」による音楽指導というものがあってね、銀座のヤマハの地下で指導講習会があるって書いてあったので、興味本位で行ってみたのよ。それがすみこ先生と一番初めにお目にかかった時よ。ああ、いろおんぷの先生もいいなあって思って、田園調布のすみこ先生のご自宅にも伺ったこともあるのよ。1956年(昭和31年)ごろの話よ。
その後2月の東京都の教員採用試験に合格。東京都杉並区の小学校の音楽の先生になったの。1957年(昭和32年)。杉並区の先生になった時、福井先生が喜んでビールで乾杯したのよ。」

麻里「ところで、なんで大学に『たなかすみこいろおんぷ』のポスターが貼ってあったんだろう?規矩士先生が武蔵野の先生だったからかしらね?」

さゆ里「多分ね。」

 

ディアパソン170号を手に入れる。

さゆ里「大学を卒業する昭和32年頃、父が新しいグランドピアノを買ってくれたの。それが今でも家にあるディアパソン170号よ。名古屋の日響楽器での取次だったと聞いているわ。大橋幡岩さんの手作りだから、半年以上待たされたと思う。」

愛用のディアパソン170号とともに。2022年(コロナ禍なのでマスク着用です。)

(注:大橋幡岩(1896ー1980)静岡県浜松市出身のピアノ製造技師。1909年に日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)に入社。ピアノ技術者の始祖といわれる山葉直吉(日本楽器創業者山葉寅楠の姪の夫)の弟子となる。日本楽器在職中はピアノ研究所長などを歴任した。その後退職。戦後1948年(昭和23年)に楽器製造に復帰。1949年(昭和24年)「浜松楽器工業株式会社」取締役技術部長に就任。本格的にピアノ製造に乗り出す。「自分の理想とするピアノを妥協しないで作る」方針は一流ピアニストや音楽家の支持を受け、「浜松楽器に大橋あり」と評判になる。1977年(昭和54年)静岡県優秀技能者表彰。1979年(昭和54年)、勲六等単光旭日章叙勲。浜松の名工として表彰。)

DEAPASON HAMAMATSU  No.170

拍子木に1952.2.19 y uと書いてありました。鍵盤を作った人が書いたのかもしれません。

1957-02-07(01かも)2270と書いてあります。ピアノの下にもぐって発見です。

武蔵野音楽大学を卒業して小学校の音楽の先生になる。

さゆ里「卒業をして東京都杉並区の小学校の音楽の先生になってね、その小学校に『ピアノクラブ』っていうのがあったの。ピアノのレッスンをするクラブよ。ここで私の一番古い生徒さんたちに出会ったのよ。PTAが新しいピアノを寄贈してくださってね、そのピアノ開きでも演奏したわね。その時の様子が朝日新聞に載ったのよ。」

 

さゆ里「小学校の先生になった頃、結婚したのよ。相手はむらさき寮のルームメイトのお兄さん。」

麻里「学生時代から付き合っていたのよね。親戚がみんなそう言っているよ。笑。」

 

小学校の音楽の先生を辞めて「いろおんぷ」の先生になる。

さゆ里「小学校の先生と家庭生活の両立が案外大変でね。今とは違うから。結局両立が出来なくなって病気になっちゃったので、残念だったんだけど小学校の先生を辞めたの。その頃、たなかすみこ先生が『全国いろおんぷ協和会』を発足されていて、『第一回いろおんぷ講師試験』というものをなさった。それに誘われて受験したら、なんと私、1番で合格しちゃったのよ。それを見たすみこ先生から『学校を辞めるんだったら、いろおんぷの先生にならない?』ってヘッドハンティングされたの。ちなみにこの講師試験の審査員は豊増昇先生もいたわね。あと愛知教育大学教授になられた今岡静子先生もいたと思う。今岡先生は田中規矩士先生の東京音楽学校の門下生よ。面白い話だけど、愛知教育大学時代に今岡先生にも師事することになっていたかもしれない。この後、いろおんぷ関係で今岡先生とも親しくさせていただいたわ。これもご縁だったのね。」

(注:「全国いろおんぷ協和会」は1957年(昭和32年)田中規矩士亡き後、規矩士の弟子やすみれ教室に集う生徒たちが中心になって、たなかすみこを主宰として発足。2008年解散。日本における最初期の音楽教室講師の団体だったかもしれない。)

さゆ里「すみこ先生の教室、すみれ会で、すみこ先生と一緒にいろおんぷの先生をしたのよ。その他、すみこ先生の指示で鎌倉、銀座の十字屋、数寄屋橋フクヤマピアノ教室など、いろいろな教室でいろおんぷの先生をしたわ。自宅教室も生徒さんも順調に増えてね。ちょうどその頃から『ピアノブーム』よ。すみこ先生の所でも4室から5室にピアノを持ち込んで、大音楽教室になっていったわ。忙しかったけど、楽しかった。」

さゆ里「実は小学校の教員時代の給料の3倍近くの所得になったのよ。『ピアノブーム』でしょ?中にはピアノの先生だけで家を建てたなんていう話もあったわ。」

さゆ里「私は『全国いろおんぷ協和会』の会員番号172番よ。『全国いろおんぷ協和会』は1957年発足だけど、私は学校の先生になったので発足当時にはいなかった。発足2年後に入会だったわ」

お出かけの一コマ。錦織さゆ里とたなかすみこ。(鎌倉の瑞泉寺の田中規矩士のお墓参りとのことです。)

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1996年錦織さゆ里主宰「にしき会発表会」にて。たなかすみこご挨拶。

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1962年(昭和37年)錦織さゆ里主宰「ふたば会発表会」にて(ふたば会はこの後、にしき会と改称する。)錦織さゆ里とたなかすみこで2台ピアノを弾く。

曲目

アレンスキー:組曲 第1番 Op.15よりロマンス・ワルツ