108.【田中規矩士・たなかすみこをめぐる人々】3 錦織さゆ里(にしきさゆり)「ピアノとともに―たなかすみこ先生との48年の日々」4 太平洋戦争開戦。絶対音感教育の話。
(2024年8月10日投稿)
太平洋戦争開戦。
さゆ里「ところが南山小学校が閉校になっちゃったのよ。」
麻里「おそらく国民学校令が成立して、小学校は国民学校として「軍国教育」をやらなくてはならなくなってしまった。大正自由主義教育とキリスト教な南山小学校は、立ち行かなくなってしまったのかもね。」
さゆ里「で、近くの八事小学校に転校したの。昭和16年よ。(注:この八事小学校は南山小学校の保護者が名古屋市に寄贈したという伝承があり、さゆ里は「私の父も寄贈のメンバーにいた」と証言しています。真偽は不明です。)12月に太平洋戦争が始まって、昭和18年に名古屋から近隣の街に家族とともに疎開をしたの。その時は例のピアノ『ヤマハの2号』を持って行ったわ。」
さゆ里「疎開先の学校の校庭に、お社みたいなものがあるのよ。私、知らないから『あれなあに?』って言ったら、周り中が硬直よ。『お前は奉安殿を知らないのか?』って。南山小学校にはそんなものはないもの。なんであんな建物に最敬礼をしなくてはいけないのかわからなかったの。」
(注:奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇皇后(明治天皇と昭憲皇太后、大正天皇と貞明皇后、昭和天皇と香淳皇后)の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物である。四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。)
【奉安殿】
https://tokyowanyosai.com/soft/edu/hoan.html
【奉安殿|消えた奉安殿を追って/とりネット/鳥取県公式サイト】
絶対音感教育の話
さゆ里「小学校の音楽の時間に、音感の授業があったのよ。先生がピアノを弾いてそれを「ハホト」とか言って答えるの。もうこの頃は「ドレミ」も「ツェーデーエー」も言えなかったからね。音はすべて「ハニホヘトイロ」よ。ピアノが弾けたから、私、これが得意でね。県や軍関係のえらい人の前でやったこともあるのよ。褒められていい気分になったわ。こんなことも『私、音楽が得意』って思う一つのきっかけになったかもしれない。
でも私の夫、つまり麻里の父は歌がとても上手で、選ばれてラジオで歌ったこともあるくらいなのに、ピアノは弾いたことはないし、音名ってよくわからなかったかと思う。それまで『音楽の授業大好き』だったのに、音感がわからなくて、『歌は好きだけど、音楽の授業が大嫌い』になってしまった。」
麻里「姑は勉強が良く出来た優等生だったんだけど、どうも音感の授業でコテンパンにやられてしまったみたい。生涯『私は音がわからない。音痴だから』とコンプレックスを持っていたわね。」
(注:国民学校になった1941年昭和16年あたりから、音楽(唱歌)の授業で音感教育があったらしい。目的は「敵機か友軍か飛行機の種類を当てる」とかだったらしい。おそらくさゆ里は小学校3年、さゆ里の夫は小学校5年、姑は小学校6年でこの授業を受けたと思われる。)