106.【田中規矩士・たなかすみこをめぐる人々】3 錦織さゆ里(にしきさゆり)「ピアノとともに―たなかすみこ先生との48年の日々」2 私がピアノを始める経緯。ヤマハの2号ピアノの話。(井上園子)
(2024年8月10日投稿)
私がピアノを始める経緯前史
さゆ里「私がピアノを始めるにあたってその前の話があるのよ。私の父の話よ。私の家は代々眼科医の家系で、親戚一同みんな眼科医師よ。元藤田医科大学長の馬嶋慶直さんとか、元名古屋市立大学眼科学教授の馬嶋昭生さんはみんな親戚よ。私は家の事情があって、一時期馬嶋昭生さんの家で育ったの。彼とおむつを共有したのがちょっとした自慢よ。(笑)」
馬嶋慶直
馬嶋昭生
【谷原秀信|日本で最初の眼科専門医─馬島清眼と馬島流について 熊本大学】
https://www2.kuh.kumamoto-u.ac.jp/ganka/pdf/ichiyo09.pdf
さゆ里「父は愛知医科大学(当時。現在の名古屋大学医学部)を卒業して、東京の井上眼科病院で研修医になったの。この井上眼科病院にはピアノのとても上手なお嬢様がいたのよ。」
麻里「井上園子さんね。のちに有名なピアニストになったわね。」
さゆ里「父が言うにはね、どうも園子お嬢様のピアノの演奏会には研修医は行かなくてはならなかったようなのよ。それで行くんだけど、父は音楽は素人でね。モーツァルトもベートーヴェンもよくわからない。演奏会のあくる日のミーティングで井上院長は言うんですって。『馬嶋君、昨日の園子の演奏はどうだったかね?』って。父は『は!良かったであります。』って言うんだけど、どれがどういう風に良かったのかさっぱりわからない。『あれには困ったよ(笑)』って言っていたわ。」
麻里「この頃の井上眼科病院の院長先生は井上達二先生という方ね。時期的に1926年(大正15年)の園子さんのデビュー公演を聴いたかもしれないわね。」
【井上眼科病院の歴史】
【井上園子】
【井上園子|グリーグ :抒情小品集 第3集 春に寄す Op.43-6】(1935年昭和10年)
さゆ里「どうも父は園子お嬢様がピアノを弾くのを見て『娘がピアノを弾くっていいなあ』って思っちゃったかもしれないわね。なんやかんやで父は新しもの好きで、ハイカラだったからね。」
私がピアノを習い始めた経緯
さゆ里「そして父は名古屋に帰って、結婚してクリニックを開業。1932年(昭和7年)に私が生まれたのよ。名古屋は芸事の盛んな地域で、女の子は6歳になると何か芸事を習うの。3歳年上のいとこは日本舞踊を習ったわ。おばあちゃんは私にいとこと同じ日本舞踊を習わせたがっていたわ。」
麻里「そうね。だから名古屋の旧家には『亡くなったおばあちゃんが子ども時代に習っていた箏や三味線』が残っていたりするのよね。」
さゆ里「多分1938年(昭和13年)だと思うんだけど、父はそのころ今でいう『動画撮影』に凝っていてね。どうしてもコダックの8ミリ撮影機が欲しい。ということでせっせと貯金をしていざ買いに納屋橋にあったというコダックの代理店に行ったんだけど、為替か何かの都合で値上がりしていて買えなかったの。がっかりしてふらふら歩いていたら、日本楽器名古屋店の前にいたのよ。ショーウインドウにはアップライトピアノが飾ってあった。それを見た父、あの井上園子お嬢様を思い出したのかしら?なんとそのピアノを衝動買いしちゃったのよ!ビックリよね」
さゆ里「数日後そのピアノが家にやってきてね、もう家族も近所も親戚も大騒ぎよ。『ピアノ買って何するの?』でしょ?
ちょうどそのころ、父の患者さんに、師範学校を卒業して小学校の唱歌の先生をしていた人が学校を辞めて音楽教室を始めた人がいたの。その人が父に『家にピアノがあって、お嬢様がいるんでしょ?ピアノを習わせませんか?これからのお嬢様はピアノですよ』ってそそのかしたらしいのよ。そういうことで私は日本舞踊でなくてピアノを習うことになったの。小俣先生っていう人だった。教室名は『ひなぎく会』よ。」
麻里「もしコダックの8ミリが買えていたら、ピアノは買わない訳だから、ピアノは習わない。不思議な話だねえ。」
さゆ里「父が買ったピアノは『ヤマハの2号』というピアノだったわ。」
演奏動画
(注:ヤマハの2号とは「ヤマハの縦型2号」という、大正時代に設計されたものと思われます。ヤマハのアップライトピアノは昭和初期に「安価な楽器を大量生産へとシフト」していきますが、それ以前の一台一台贅沢に作られた時代のものです。音色は現代のヤマハとは異なり、柔らかい「木のぬくもりのある音」です。アクションはヤマハ独自のものだそうで、この時代の他のヨーロッパ製より若干鈍い感じとのことです。)