97.【田中規矩士・たなかすみこ夫妻をめぐる人々】1奥田操「恩師田中規矩士先生の思い出1」田中規矩士に師事した経緯
(2024年6月19日投稿)
2024年2月、元武蔵野音楽大学ピアノ科教授である奥田操氏に「田中規矩士の思い出」の聞き取りに伺いました。奥田操氏は田中規矩士の武蔵野音楽大学時代の門下生でいらっしゃいます。1931年(昭和6年)生まれ。2024年に満93歳になります。とてもお元気で、たくさんの思い出を語っていただきました。
奥田様、ありがとうございました。
このインタビューを録画してきたので、音声のみ書き起こしをしました。
・聞き取りによって得た内容のうち、筆者が見出しをつけて示しました。
・発言者の敬称は省略しました。
・丸括弧は書き起こしの際に中の人が補った部分です。
・本原稿は調査協力者の校閲を経たうえで、筆者が修正、訂正を行いました。
田中規矩士氏は「田中先生」「規矩士先生」と表記のゆれがあるが、発言者が発言したそのままにしました。これは田中規矩士生前からこの表記のゆれはあったようです。田中規矩士の妻もピアノ教師であったので、田中家の音楽教室「すみれ会」、そして規矩士の勤務先では「規矩士先生」「すみこ先生」と呼び分けていたようです。
協力者:奥田操(1931年(昭和6年)生まれ。元武蔵野音楽大学ピアノ科教授。現名誉教授)
同席者:錦織さゆ里(1932年(昭和7年)生まれ。田中規矩士の妻、たなかすみこの48年にわたるアシスタント。1957年(昭和32年)武蔵野音楽大学ピアノ科卒。田中規矩士の門下生ではないが、同じ大学の教授として田中規矩士を知っていた。この聞き取りには錦織と称する。)
錦織麻里(錦織さゆ里長女。この聞き取りには麻里と称する。)
(文責:錦織麻里)
田中規矩士に師事した経緯
奥田:「昭和23年にね、私は武蔵野の本科に入ったんです。まだ予科があった時代です。その時に田中規矩士先生のお弟子でいらした豊増昇先生(注1)。井口先生(注2)も規矩士先生のお弟子ですけれど。皆、一世代前の先生ですよ。規矩士先生はクロイツァー(注3)のお弟子ですけどもね。
規矩士先生が藝大の騒動(注4)があって辞めて武蔵野にいらっしゃるから、
『あなたは武蔵野に入って田中規矩士先生に師事出来たら素晴らしいから』
と、豊増昇先生に勧められて、田中先生につくべく、武蔵野に入学しました。
それから田中先生が私に懇切丁寧な練習の仕方を教えてくださったので、私はピアノが好きになったんです。
田中規矩士先生という方はあがり症でいらしたらしく、ご自分では演奏活動をなさらなかったの。一回リサイタル(注5)をしたら途中でお止めになってしまわれた。それは、有名な話ですけれど。
だから演奏活動はなさらないで、教えるのに専心なさってたから、本当に良く教えてくださって、私は規矩士先生のおかげでね、ピアノが好きになって、そして一生懸命やりまして、先生にしていただき、それで60年も勤めたんです。規矩士先生は、私の大恩人です。
私は奥様のすみこ先生はよく存じ上げていましたが、直接の関係はありません。
規矩士先生はすみこ先生を「いろおんぷの大先生」と尊敬していらっしゃいました。
すみこ先生も規矩士先生を大事にしていて尊敬していらっしゃいましたけど。
私はすみこ先生とは関係は、直接は、お話はたくさんしましたけれども、いろおんぷのことは一切。いろおんぷの楽譜もいただいたけど、いろおんぷにはほとんど関心はございませんでした。もうその年ではありませんし。」
(注1:豊増昇(1912-1975)元東京音楽学校ピアノ科教授。戦後は武庫川女子大学音楽部長などを歴任。戦後はピアニストとしても活躍。日本芸術院会員。指揮者小澤征爾のピアノの師でもあった。田中規矩士の門下生。)
(注2:井口基成(1908-1983)元東京音楽学校ピアノ科教授、戦後桐朋学園音楽部門を創設した。田中規矩士の門下生。)
(注3:レオニード・クロイツァー(1884-1953)ロシア出身のピアニスト、指揮者。現在のベルリン芸術大学ピアノ科教授。ユダヤ出自だったので、ナチスドイツの台頭で職を追われ、来日。東京音楽学校外国人教師(ピアノ)となる。多数の日本人の優秀な門下生を輩出。日本におけるピアノ界の大恩人の一人。田中規矩士も門下生の一人。)
(注4:藝大の騒動とは、1946年(昭和21年)、東京藝術大学の前身、東京音楽学校で、戦争中の出来事に関する粛清人事があったようである。1945年(昭和20年)4月まで東京音楽学校教授だった田中規矩士はその後講師になっていた。1946年(昭和21年)9月末に東京音楽学校を退職した。その後1948年(昭和23年)か1949年(昭和24年)に武蔵野音楽大学か前身の武蔵野音楽学校にて教鞭を取りはじめたと思われる。武蔵野音楽大学には2024年現在、正確な資料が見つかっていないそうである。武蔵野音楽大学には確認済。)
(注5:田中規矩士は1932年(昭和7年)と1942年(昭和17年)と2回自主リサイタルをしているようだが、どちらの話であるのかわからない。自主リサイタルのプログラムと広告が現存。)
(注6:田中規矩士の妻、たなかすみこは幼児音楽教育のメソード「いろおんぷ」を開発した。このメソードはその後小学校の音楽の教科書などにも採用。ヤマハ教育システムの元にもなった。)
(続く)