田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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4.たなかすみこものがたり1-1

たなかすみこものがたり   錦織麻里

主に、たなかすみこ著『虹色のひらめき...をあなたも』シンコーミュージック1984年を参考に書きました。

 

題名が長いので、『虹色のひらめき』と略称します。

その他の参考文献は後ほどまとめて別稿にて掲載します。

敬称略とします。

 

たなかすみこ 本名田中すみ。旧姓黒澤。

田中すみ子、Smi Tanakaなどの名義での活躍もある。

1909年(明治42年)8月5日東京にて出生。

 

父は和文タイプライターで著名な黒澤貞次郎。母は父の会社「黒澤商店」のタイピストであったと伝えられている。

父の黒澤貞次郎に関してはたくさんのWebサイトに記載がある。後ほどリンクを貼ります。

すみこが生まれたころは、丁度銀座の「黒澤商店」の店舗建築が始まったばかりであった。店の片隅が出来たということで「すみ」と名付けられたとすみこ本人が語っている。この銀座の店は、日本初の鉄筋コンクリートビルである。

 

父、黒澤貞次郎は1875年(明治8年)東京生まれ。生家はあまり裕福ではなく、10歳の時、薬種問屋に丁稚奉公に出た。しかしアメリカに興味があり英語を独学。1893年明治26年)18歳の時、アメリカに移住。初めは西海岸で単純労働に従事していたらしいが、ある時、「東は豊か」という新聞広告を見てニューヨークに行く。

1897年(明治30年)ニューヨーク郊外のある家庭で住み込みで働き始めた。その家庭がタイプライターのエリオット・ハッチ・タイプライターの経営者の家庭だった。これがきっかけでタイプライターに興味を持つ。

その後見習いとしてエリオット・ハッチ・タイプライター社で働き始めた。その2年後に和文平仮名・カタカナタイプライターを独力で開発。それをニューヨークの日本総領事館などに売り込みに行ったようだ。

(この辺りの年表には各資料に食い違いがあります。どれが本当か筆者は現在の所わかりません)

1901年5月帰国。エリオット・ハッチ社の輸入代理店として、開発したばかりのカタカナブックタイプライターを商品に東京都京橋区弥左衛門町に「黒澤商店」を開店。各方面へ商売に奔走した。

 

この単身アメリカに渡り、ほぼ自力で和文タイプライターを開発したという貞次郎の業績は、すみこにとって生涯の目標であり、そして自慢でもあった。

「私も父のような偉大な発明をしなくては!」

すみこの生涯に大きな影響を与えた父であった。

 

貞次郎は1902年(明治35年)結婚。3男4女に恵まれる。すみこは1909年(明治42年)次女として、4番目の子供として生まれた。

貞次郎の妻、きくは横浜の共立女学校出身と伝えられている。共立女学校で英語とオルガンを学んだようだ。きくは「英語が生涯得意であった」と伝えられている。そして日本で最初期の「タイピスト」であったとも伝えられている。

アメリカ帰りの貞次郎、英語が得意なきくの家庭は英語が飛び交うハイカラな家であった。

 

すみこが生まれた1909年(明治42年)に、貞次郎は銀座に「黒澤商店」本店ビルの建設を開始。このビルは貞次郎自身が設計図を引き、実際の工事の陣頭指揮をとった。貞次郎は建築には素人であったが、建築の専門書を独学で猛勉強。そして後の専門家があっと驚くアイデアに満ち溢れた独創的なビルを建築。そしてこのビルは日本初のRC構造のビルであった。このビルは関東大震災にも耐え、戦災にも耐えたそうである。

 

この「後の専門家があっと驚くアイデアに満ち溢れたビル」というのもすみこの自慢。

「私も大好きな父と同じように一生懸命勉強をして、独創的なアイデアがひらめく人にならなくては!」

筆者はすみこの生涯はこの偉大な父を追いかけた人生だったと思う。

 

すみこが生まれた1909年(明治42年)には貞次郎の事業も成功。すみこは父とは反対に裕福な家庭で育った。しかし両親の方針で生活は質素であったと伝えられている。

1914年(大正3年)東京市外蒲田村御園に(現在の大田区蒲田)に2万坪の工場用地を取得。自宅もそこに移した。すみこの物心がついて、自宅というのはこの蒲田の家であろう。

この蒲田工場用地には、貞次郎の信念で、工場以外にも社宅、食堂、菜園、学校など、当時としては珍しいほど福利厚生がに整っていた。「究極の田園都市」「我等が村」。きちんと整った工場で精一杯働く。これが貞次郎の信念であった。

 

社員は昼間は工場で働き、夕方には終業。終業後は工場の隣の社宅に帰り、家族団らん。休憩時間には菜園で働くもよし。子供たちは工場内に建てられた学校に通う。

「ここは村の建設者でもあり、主でもある黒澤貞次郎を家長とした大家族主義の和やかなユートピアである」

と1940年(昭和15年)のアサヒグラフに掲載された。この工場は「黒澤村」と言われ、近隣の羨望のもとにあったと伝えられている。

この「黒澤村」もすみこの自慢。

日本におけるロータリークラブ草創期に活躍をした父。すみこの行動の規範はすべて父であったと思って良いと筆者は思う。