田中規矩士ものがたり
田中規矩士ものがたり 錦織麻里 (すべて敬称略とします) 主な参考文献:たなかすみこ著『虹色のひらめき...をあなたに』シンコーミュージック1984年。題名が長いので『虹色のひらめき』と略称します。 その他の参考文献は後ほどまとめて別稿にて掲載します…
この1923(大正12)年のどこかで、後の妻、たなかすみこ、(旧姓黒澤すみ)が規矩士に入門しているようだ。 この1923(大正12)年は関東大震災の年。規矩士は関東大震災で被災してしまい、たなかすみこの家に避難をするそうなので、(この箇所を取り消します…
1928(昭和3)年、規矩士は2月9日付けで助教授、2月10日に慌ただしく文部省在外研究員としてドイツ国ベルリンに赴く。この留学直前に規矩士は弟子の「黒澤すみ(たなかすみこ)」と婚約したと伝えられている。
そしてベルリン国立高等音楽院教授レオニード・クロイツァーに師事。ピアノ修行に励むこととなった。 規矩士すみこの旧宅に残されていたクロイツァー教授の写真。 この写真は規矩士ベルリン時代のもの?と推測する。ピアノはブリュートナーのようである。
この原稿はいつ書かれたのかはわからない。多分後年「ベルリンの思い出を」と言われて書いたのでは?と思う。何かの雑誌の原稿?それとも個人的に書いたもの?詳細は不明であるが、規矩士がいたころのベルリンの雰囲気、そして規矩士のベルリン時代の話とし…
(3枚目) 理解という点では、全くうらやましくなります。日本にも早くそのような時期の来ることを祈ってやみません。とにかく彼等は音楽に恵まれていることは事実で、一日中良い音を耳にしないことはないでしょう。朝早くからラジオではよい音楽を放送しま…
5枚目。 コーラスで思い出しましたが、よく青年団の一隊が四列の隊形で市中を行進するのに出会いますが、その時には大抵国歌のようなものを三部位で声高らかに勢いよく歌って練り歩きます。よく足で拍子をとりながら秩序整然と行進しているのは、はたから見…
7枚目。 御用聞きの小僧たちに至るまでなかなかハイカラなものを歌っています。お話はベルリンに戻りますが、ベルリンには音楽会が普通使用されるものに六ヶ所あります。フィルハーモニー、ベートーヴェンザール、ジングアカデミー、バッハザール、マイスタ…
9枚目 殊に期待している演奏会を聴く場合に会場まで来て最早切符売り切れとあると全く恐感せざるを得えませぬ。会場には開演間際でなければ入場出来ません。あまり早く行っても会場は電気もついていないし、なんとなく淋しいので、ちょっと心配させられます…
規矩士は日本に住む家族にせっせと手紙を送ったようだ。それによると規矩士はベルリンのシェーネベルグ地区に住んだようだ。消印はいつもシャルロッテンブルグ郵便局のものである。この辺りを起点に活動されたと思われる。 そして婚約者黒澤すみ(たなかすみ…
規矩士のベルリンにおけるピアノ修行は終わった。しかし日本から遠い遠いヨーロッパまではるばる来たのである。次はいつ来ることが出来るのかわからない。ということで、まっすぐ日本に帰ることはしないで、視察旅行に出かけた。行先はフランス、イタリア。…
本人が語ったはっきりとした理由は伝わっていないので、推測である。 まず規矩士が留学をしたころのヨーロッパ情勢である。第一次世界大戦終戦からまだ10年しか経っていない。敗戦国ドイツは払いきれないほどの賠償金を負い、ハイパーインフレーションとなり…
1930(昭和5)年5月31日イギリス、アメリカを経由して帰国。この規矩士の帰国を東京音楽学校は待ちわびていたようだ。早速にして6月25日付け東京音楽学校ピアノ科教授。そして帰国してすぐ第四臨時教員養成所ピアノ科教員になる。(1931年度まで)
規矩士がドイツから帰国した同じ年、1930年(昭和5年)10月10日、晴れて弟子でもある婚約者黒澤すみ(たなかすみこ)と結婚式を挙げた。 挙式の場所は不明。伝わっていない。新婚旅行に行ったかどうかも伝わっていない。
東京音楽学校としては規矩士にドイツで習得した最新の「音楽事情」をご披露、そして活用してもらう気満々だったと思う。1931(昭和6)年1月16日から20日まで京都、名古屋へ東京音楽学校主催演奏旅行。自作披露も兼ねて、たくさんのステージをこなすのであっ…
そして話は前後するが、規矩士すみこ夫妻は1939(昭和9)年いよいよ待望のスタジオ付き新居を建築することになった。 場所は東京都世田谷区東玉川。施工会社は清水建設(当時は清水組)大友弘設計。大友弘設計の建築物は、美智子上皇后陛下のご実家(現存せ…
規矩士とすみこが結婚した3年後の1933(昭和8)年、ドイツは「ナチス党」が政権奪取。不穏な空気が流れだす。1939(昭和14)年にはヨーロッパではとうとう第二次世界大戦勃発。戦争が始まってしまった。1918年の第一次世界大戦終結からたった21年しか経って…
1943(昭和18)年11月8日(月)。日本青年館にてこのような演奏会があった。規矩士すみこ夫妻の2台ピアノリサイタル。 雑誌広告
ミッドウェー海戦に大敗したことで、軍は「これからの戦争は大型戦艦ではなく、航空機」と認識を大きく変えたようだ。「空を制したものが勝利する」と認識した。「戦争への勝利は航空機増産!」 飛行機工場増設!航空機大増産!それには工場に人員がいる!だ…
この当時航空機産業の中心は東海地方であった。名古屋近郊、そして浜松など。浜松にあったヤマハの前身日本楽器製造も楽器ではなく、航空機のプロペラを作っていたそうである。浜松は規矩士の父の郷里かもしれない。 global.yamaha-motor.com そして航空機発…
『東京芸術大学百年史』と『演奏編』に残る規矩士の話続き。 規矩士とすみこが「航空機献納」をした同じ1943(昭和18)年9月の卒業式と卒業演奏の話。 戦況が厳しくなったこのころ、学生は半年早く卒業させられ、戦地に送り込まれていた。なので、卒業式は3…
この写真はいつ撮影されたものかはわかりません。そして場所もわかりません。規矩士とすみこの発表会の集合写真と思う。 しかし左端に東京音楽学校の男子生徒と思われる人物が写っている。 拡大。 この眼鏡をかけた男性、東京芸術大学アーカイブに残る村野弘…
すみこが書き残したものによれば、地方から東京音楽学校に入学する生徒たちの住居にも困難が生じるようになってくる。規矩士すみこ夫妻はそんな門下生を自宅に下宿をさせたりしていたようだ。 後に愛知教育大学教授となった今岡静子が「規矩士すみこ夫妻の家…
1945(昭和20)年『東京芸術大学百年史』によると、4月30日、規矩士は教授職を辞任。講師となる。 何があったのかはわからない。この辞任もすみこは何も言っていない。すみこは「最後まで教授だった」と言っているのである。ただ東京芸術大学だけに記録が残…
破壊し尽くしたあの悲惨な戦争が終わった。世の中が少し明るさを取り戻したようだ。 あの8月15日の日を規矩士とすみこはどうやって過ごしたのかは伝わっていない。 幸いなことに規矩士とすみこの家は空襲の被害に遭わないで戦争を乗り越えることが出来た。 …
退職後、規矩士は自宅でひっそりと個人教授をしていたようだ。旧宅にはタイプライターで打たれているプログラムが残っていた。謄写版印刷のプログラムもある。 自宅スタジオにての演奏会開催。そして妻、すみこと二台ピアノのレパートリー作りを考えていたよ…
「武蔵野音楽大学発行三十年の歩み」(発行1959年昭和34年)という冊子がある。これはにしきさゆりが持っていたものである。 それに「昭和24年の大学移行の回顧」というページがあり、大学移行、創立20周年を祝して教職員一同という写真があった。規矩士が最…
規矩士がすみこに出した「ベルリン便り」に車の運転のことが書いてある。ポツダムからベルリンまで車を飛ばした話である。 すみこによれば、規矩士は「ドライブの趣味」があったそうである。残る写真。
1951年(昭和26)3月、規矩士は東京北ロータリークラブに入会した。 その東京北ロータリークラブの創立25周年記念誌が旧宅に残されていた。 この本によると元々、日本における初期のロータリークラブである「東京ロータリークラブ」が出来たのは1921年(大正…
そして1955(昭和30)年8月7日逝去。享年57歳。死因は胃がんであった。 規矩士は胃が弱かったと伝えられているが、比較的元気で、この当時は武蔵野音楽大学、フェリス女学院に勤務をしていたと伝えられている。しかし急に病状が悪化。あっという間に逝去した…