田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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56.田中規矩士ものがたり7-2

そして1955(昭和30)年8月7日逝去。享年57歳。死因は胃がんであった。

規矩士は胃が弱かったと伝えられているが、比較的元気で、この当時は武蔵野音楽大学フェリス女学院に勤務をしていたと伝えられている。しかし急に病状が悪化。あっという間に逝去したと伝えられている。すみこは45歳であった。

この当時武蔵野音楽大学の学生で、すみこの長年にわたるアシスタントであったにしきさゆりがこのことを伝えている。

「それまで元気であった田中教授の休講を伝える掲示が夏の初めにあったのよ。そのうち噂で『田中教授は重病らしい。門下生が慌てている』と聞いた。そしたらあっという間に訃報が出てね」

 

規矩士の葬儀の時の写真が残されていた。

右より福井直秋武蔵野音楽大学学長、井口基成、豊増昇、福井直弘武蔵野音楽大学教授。この福井直弘は福井直秋の次男である。ちなみに長男は規矩士と同僚であった福井直俊である。このころには東京音楽学校の後継の学校、東京芸術大学に復学して、教授であった。

この写真からやっぱり規矩士の弟子番号1はすみこ、2は豊増昇、3は井口基成だったのかもしれないと思う。

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通夜にて。すみこ。

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この葬儀の時、すみこが失神してしまったということを親族が伝えている。

規矩士が病気になったらお見舞いで皆さんがメロンを持って来た。規矩士の悲しいできごとがあったので、すみこはメロンが大嫌いになってしまったそうだ。

 

あくる年1956(昭和31)年9月28日日本青年館にて、規矩士を偲ぶ演奏会が行われた。

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当日のプログラム

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元々この年は規矩士とすみこの銀婚式であったので、(本来なら前年かも)二台ピアノの会をやろうと会場が押さえてあったとすみこが言っている。

この時演奏されたブラームスの《ハイドンの主題による変奏曲》は規矩士のお気に入りの曲であったと伝えられている。

豊増昇が弾いたベートーヴェン作曲ソナタ作品110というのは、恩師クロイツァーが「マイ・ソナタ」と愛した曲だそうである。規矩士も好きな曲であったのだろうか?

 

そして1965(昭和40)年ホテルニューオータニで「田中規矩士を偲ぶ会」があった。

スピーチをする井口基成。(桐朋学園大学学長)

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スピーチをする大島正泰。(桐朋学園大学教授)

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スピーチをする豊増昇。

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スピーチをする三宅洋一郎。(フェリス女学院短期大学教授)

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スピーチをする今岡静子。(愛知教育大学教授)

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スピーチをする藤沼昭彦(武蔵野音楽大学教授)  2023年1月7日訂正

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親族からはすみこの長兄黒澤敬一夫妻、弟の黒澤張三夫妻が出席したと伝わる。

挨拶をする黒澤敬一とすみこ

黒澤敬一は音楽界と関係が深く、音楽学者皆川達夫、作曲家團伊玖磨山田耕筰芥川也寸志黛敏郎らと親しかったと伝えられている。(この稿松田喜久子著『日英友好の灯火を守った黒澤家と東京マドリガル会』自費出版18ページによる)

 

田中規矩士写真集

愛用の楽譜カバンを持って。場所は不明。

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サインつき。

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鎌倉瑞泉寺にて。

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親族のアルバムに残る規矩士。美味しそうにお弁当を食べる。

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