1951年(昭和26)3月、規矩士は東京北ロータリークラブに入会した。
その東京北ロータリークラブの創立25周年記念誌が旧宅に残されていた。
この本によると元々、日本における初期のロータリークラブである「東京ロータリークラブ」が出来たのは1921年(大正10)。この「東京ロータリークラブ」にてすみこの父、黒澤貞次郎が草創期のころから活躍をした。
しかし、1940年(昭和15)、東京ロータリークラブは、国際ロータリークラブと縁を断った。あの戦争の時代ですね。
そして戦後になってまた国際ロータリークラブと関係が出来、1949年(昭和24)に東京南と東京北という支部が出来たとのこと。正式には1950年8月に東京北ロータリークラブ設立とのことだそうなので、出来たばかりの時代に規矩士が入会したということがわかった。
規矩士が何故ロータリークラブに入会して、ロータリアンになろうと思ったかはわからないが、推測としてやはり妻、すみこの父、兄、弟がロータリアンであったので、その影響もあると思う。
そしてこの本によると、規矩士はS.A.A.というお役目も1953年(昭和28)から1954年(昭和29)までやった。S.A.A.とはこういうお役目とのこと。要するに「例会係」というものであろうか。
そしてロータリーの歌《オー ロータリー ロータリアン》を作曲。
そしてこの曲をオーケストラに編曲することになり、作曲家の團伊玖磨に編曲を依頼したようだ。團伊玖磨は規矩士が東京音楽学校にいた頃、学生であった。規矩士の門下生ではないようだが、戦後フェリス女学院で同僚となった。旧宅からオペラ《夕鶴》の初演時のプログラムが出て来た。ということは聞きに出かけたかと思う。
《おおロータリアン》を弾いてみた。
そしてもう一曲1955年(昭和30)に《四つのテストことにあたりて》を作曲。こちらは長いこと歌い継がれていたそうである。
弾いてみた。
ロータリーでの写真。裏に昭和29年10月17日 katsuo Gotohと書いてあります。
少し緊張した面持ちのロータリアン規矩士。
さて、父、兄、弟、そして夫が活躍した「ロータリークラブ」にすみこはずっと親しみと憧れを持っていたようだ。規矩士亡き後、東京北ロータリークラブの音楽指導に行っていたようだ。しかしこの当時女性のロータリークラブ入会は認めらていなかった。女性の入会が認められたのはなんと平成の世になってからのようである。(驚!)
音楽教育事業に成功したすみこ、自身もロータリアンになりたかっただろうと推測する。
すみこが何かで書いた《ロータリーのうた》