田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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39.田中規矩士ものがたり3-1 東京音楽学校教授1

1930(昭和5)年5月31日イギリス、アメリカを経由して帰国。この規矩士の帰国を東京音楽学校は待ちわびていたようだ。早速にして6月25日付け東京音楽学校ピアノ科教授。そして帰国してすぐ第四臨時教員養成所ピアノ科教員になる。(1931年度まで)

 

臨時教員養成所とは、師範学校、中学校および高等女学校の教員を養成するための臨時の施設で、不足する専門の中等教員を補充する教員養成機関であった。実は規矩士はその後も師範科の教員をしていることが多いように思われる。教授として本科だけでなく、「何でもやります」教授でもあったのかもしれない。しかし、この「何でもやります」教授で学生数の多い師範科の教員もやったことで、規矩士に師事した門下生の数が多くなった。それが後に妻、すみこの「いろおんぷ」の伝播に大いに役立ったというのは、面白い因縁であろうと思う。すみこの「いろおんぷ」の伝播はまず規矩士の門下生たちが担ったから。そして規矩士亡き後、失意のすみこを支えるのも、この大勢の規矩士の門下生たちであった。

1942(昭和17)年以降に撮影されたと思われる規矩士と学生たち。前列右の男性は後に北海道教育大学教授になった片桐誠一。片桐誠一も規矩士亡き後、すみこの活動を支えるのであった。

(いつ撮影された写真かはわかりません)

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そして師範科に集う学生の便を図ったのかもしれない。乙骨三郎訳,田中規矩士選曲『バイエルピアノ教則本』を1935(昭和10)年シンキャウ社より出版もするのである。

iss.ndl.go.jp

(この本は国会図書館にて電子化されていて国立国会図書館/図書館送信参加館内公開で内容を見ることが出来る。何故か著作権状態となっている)

東京音楽学校における規矩士の教室は13番教室。この教室からたくさんの門下生たちが羽ばたいていった。