本人が語ったはっきりとした理由は伝わっていないので、推測である。
まず規矩士が留学をしたころのヨーロッパ情勢である。第一次世界大戦終戦からまだ10年しか経っていない。敗戦国ドイツは払いきれないほどの賠償金を負い、ハイパーインフレーションとなり、相場も安定しない。
逆に言えば戦勝国である日本は、ドイツに割安に留学出来るのである。
この当時1923(大正12)年くらいから1928(昭和3)年あたりまで、ドイツからのピアノの輸入が増大しているそうである。ちょうど規矩士が留学を決めるころである。(田中智晃著『ピアノの日本史』名古屋大学出版会2021年52ページから54ページ)
あと考えられるのが、同僚であった高折宮次も1923(大正13)年にベルリンに留学。ベルリン国立高等音楽院教授であったクロイツァーに師事。その良い評判を日本に伝えている。この影響もあったかもしれない。
どちらにしても当時の東京音楽学校はドイツ人の教師が多かったので、それもベルリン行きを決めた一つの要因であったかもしれない。規矩士が学生時代にはベルリン国立高等音楽院出身のパウル・ショルツがいた。そして規矩士が教務嘱託であったころ、ベルリンでシュナーベルに師事したウイリー・バルダスがいた。二人ともベルリンで勉強をしている。
このリンク先の「コトバンク」によれば、官費での留学はドイツ行きが主流だったとのこと。
このような状況であったので、素直に「ベルリン行き」を決めたのではと筆者は思う。
ベルリンで作ったブロマイド絵葉書かもしれない。裏にベルリンと書いてあるから。
表
裏
フランスからアンリ・ジル・マルシェックスが初来日をするのは1925(大正15)年であるので、フランスという選択もまったくない訳ではなかったと思うが、結局ドイツに行くことにしたのであろう。同級生荻野綾子は深尾須磨子の影響で、フランスに向かうのであった。