規矩士のベルリンにおけるピアノ修行は終わった。しかし日本から遠い遠いヨーロッパまではるばる来たのである。次はいつ来ることが出来るのかわからない。ということで、まっすぐ日本に帰ることはしないで、視察旅行に出かけた。行先はフランス、イタリア。そしてスイスを経由してまたベルリンに戻った。
3月2日より3月11日までフランスに滞在。フランスには陸路で出かけたのだろう。このようなWebサイトを見つけた。
「北急行」
このWebサイトによるとこのころ「北急行」といってベルリン⇔パリ間の直行の汽車があったようである。所要時間13時間45分。ベルリン→パリは1050kmで、大体東京から博多までと同じくらいのようだ。やはりヨーロッパは広いようで狭いのだと実感をする。
ベルリン⇔パリ間の時刻表だそうです。このサイトの右端にあります。直接リンクを貼ります。(すみません)
3月12日から3月20日までイタリアに行く。
イタリアから婚約者黒澤すみに宛てたハガキが残っていた。ミラノに寄って「スカラ座」でオペラを楽しんだようだ。演目は「ウィリアム・テル」。おそらくロッシーニの「ウィリアム・テル」と思われる。
3月12日午後1時にミラノに着きました。旅行は長く疲れるので、閉口します。案内人と約3時間市内を見物しました。思ったより立派なのに驚かされました。夜は疲れていますが、勇気をつけてスカラ(オペラ)に参りました。確かにヨーロッパ第一でしょう。大きいことも、すてきなことも一言でも申し上げられません。〇のあるところに参りました。毎日満員だとのことです。出し物は「ウィリアム・テル」で、イタリア得意のものですから、本当に(わらかない。素晴らしかった言っていると思う)。オーケストラは普通としてシンガー(歌手)の上手なこと。まるであの大きな(読み下せない)バリバリします。カールソーが上手だったというのも、ここでは当然でしょう。考えれば日本(?)はまるで赤子みたいです。(消印に隠れて見えない)二日目はトスカですが、(読み下せない)残念ながら(読み下せない)口惜しく思います。次はローマに向かいます。3月13日(木)KT
絵葉書裏。桟敷席の5階で鑑賞したようだ。〇が書いてある。
3月21日から26日までスイスに滞在。そして一旦ベルリンに戻った。
4月16日、2年にわたるベルリン生活に別れを告げ、一路帰国の途についた。この帰国の旅はほぼ地球一周。まずロンドンに滞在。そして大西洋を渡ってアメリカへ。アメリカを横断して太平洋を船で渡って日本に帰国。
記録では5月31日帰国とある。長い長い旅であった。
規矩士が帰国して3年後の1933(昭和8)年、ドイツは「ナチス党」が政権奪取。不穏な空気が流れだす。ユダヤ人の公職追放。恩師クロイツァーはユダヤ人だったので、ベルリン高等音楽院教授の職を追われ、結局日本に逃げた。
1939(昭和14)年にはとうとう第二次世界大戦勃発。それ以前に1932(昭和7)年の満州事変、1937(昭和12)年の日中戦争と日本もヨーロッパもきな臭くなった。そして太平洋戦争。終結しても混乱は続き、気軽にヨーロッパには行ける状態ではない。やっと落ち着きを取り戻したころ、規矩士は亡くなってしまった。
規矩士が望んだ「ベルリン再訪」は叶えられることはなかった。しかし第二次世界大戦でベルリンは空襲被害が大きく、規矩士がいたころのベルリンはなくなってしまったと思われる。規矩士が再訪してもがっかりするばかりであったかもしれない。
規矩士が帰国して6年後のベルリンの街。ナチス党が政権をとった後なので、ナチスの旗が多いですが、それ以外はそれほど変わっていないと思われる。
そして空襲で破壊されたベルリンの街。