田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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36.田中規矩士ものがたり2-8「嗚呼憧れの欧羅巴。規矩士伯林に行く」8 婚約者すみこへの手紙

規矩士は日本に住む家族にせっせと手紙を送ったようだ。それによると規矩士はベルリンのシェーネベルグ地区に住んだようだ。消印はいつもシャルロッテンブルグ郵便局のものである。この辺りを起点に活動されたと思われる。

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そして婚約者黒澤すみ(たなかすみこ)にもせっせと手紙を送った。しかしまだ学生であるすみこをおもんばかって、ラブレターではなく、ひたすら近況報告である。

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「1の下の〇は、只今の下宿です。2とあるのは、日本人が良く行く『ビクトリアカフェー』といってあまりよくないところです。先生のお宅はこのプラッツ(広場)のすぐ近くです。私の下宿から10分もあると行けます。シェーネベルクは一番日本人が多いことで知られています。

このカフェーの音楽はよく(ここから読み下せない。外に聴こえてくると言いたいのか?)先日もお話したのは、このカフェーのことです。只今は気候が一番よろしいので、外からでもどこからでもよく(ここも読み下せない)が出来ます。今日はヴェルディリゴレットをやっていました。例によって垣根の外からの(読み下せない)はなかなか多勢でした。いずれも自分の知っているところはみんなで合唱しましたから、愉快でした。

ベルリン日本大使館 K.T

 

裏の絵葉書部分。下宿の所に〇が書いてある。

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ベルリンーシェーネベルグ地区。ヴィクトリアルイーゼ広場。Googleストリートビューで見る限り、現在は2番の建物はないようだ。

 

そしてベルリン最後の手紙。

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今夜はクロイツァー先生との送別会を8時から(?)東洋殿(?)でいたします。ご出席ございます人々は、大塚先生を始めライフ氏、ライフ嬢、それに大月嬢までがご一緒ですからさぞ賑やかでしょう。クロイツァー先生は奥様ご同伴でお出で下さいます。二年の(読み下せない)終了しました。まだまだたくさんやりたいのですが、期限では仕方がありません。ベルリンは未だ(読み下せない)喜んでいます。去年とは二十(?)からの違いですから、驚きます。朝夕は(?)延びました。何だか初春のような気がします。ベルリンを去る時は是非ともポツダム、グルーネヴァルトに今一度行きたいのです。2年の昔、ここで松風を聞くことをどんなに喜んだでしょう。今までもその頃が懐かしくております。日本も良いのですが、ベルリンの郊外の、水のないのが多少物足りなくても、ここに住んでみるとなかなか良いものです。多くの人は割合に夜のベルリンを歓迎しますが、私は反対です。ベルリンの郊外ほど印象はありません。大塚先生とグルーネヴァルト、ポツダムへ行った時はやっぱり一番懐かしいものでした。巡査に叱られたり、ポツダムからベルリンまで自動車を走らせたりしたるを考えると、皆、夢のようです。いよいよこれも近いうちに終わりとなりますので、急に残り惜しくなります。(読み下せない)再びベルリンを訪問したくてたまりません。苦しい事が多かっただけ印象も(読み下せない)どうかそのような日を再び来る事を祈っています。

1月26日(日)

 

この手紙はベルリンを去る1930年1月に書かれた。ベルリンでの送別会の模様を書き送ったものと思われる。規矩士はベルリンでベルリン高等音楽院レオニード・クロイツァー教授に師事していた。なのでクロイツァー教授、そしてその妻が送別会に参加してくれたと報告している。

 

クロイツァー教授の妻は『クロイツァーの肖像』荻野由喜子著 ヤマハミュージックメディア(2016)によると、この時代は「ロシアの共産革命によって肉親も財産も失った元大公夫人」であると思われる。(169ページから170ページ)この部分は『近衛秀麿 日本のオーケストラを作った男』大野芳著 講談社(2006)の306ページからの転載だそうである。クロイツァー教授はこの後、ユダヤ人の公職追放で結局日本に逃げてきた。そして戦後1952(昭和27)年、日本人の織本豊子と再婚した。

大塚先生は大塚淳のことであると思われる。東京音楽学校での規矩士の同僚で、この当時一緒にベルリンにいた。

大月嬢は、大月投網子のことではないかと思われる。丁度同じころベルリンでクロイツァー教授に師事していた。大月投網子はピアニスト、フジコ・ヘミングの母である。

ライフ氏とライフ嬢はわからない。

規矩士はベルリンの「ナイトライフ」より郊外を好んだようだ。ポツダムやその近郊のグルーネヴァルトがお気に入りだったようだ。

規矩士はベルリン再訪を願った。しかしそれは叶えられることはなかった。