田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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29.田中規矩士ものがたり2-1「嗚呼憧れの欧羅巴。規矩士伯林に行く」1

1928(昭和3)年、規矩士は2月9日付けで助教授、2月10日に慌ただしく文部省在外研究員としてドイツ国ベルリンに赴く。この留学直前に規矩士は弟子の「黒澤すみ(たなかすみこ)」と婚約したと伝えられている。

 

弟子の「黒澤すみ」は師の規矩士に一目ぼれ。認めてもらいたくて猛勉強の末、規矩士を追いかけて「東京音楽学校入学」を果たす。そして規矩士のハートも射止めたようである。すみこは後に「規矩士先生が『私のピアノの音が好き』って言ってくださったの」と語った。

しかしこの結婚に関してはすみこの父、黒澤貞次郎は当初あまり「良い顔」をしなかったことも伝えられている。(『虹色のひらめき』97ページ、98ページ)〉

慌ただしく留学をした「田中先生」のことは、どうやら東京音楽学校内で話題になったようである。「田中先生の留学には黒澤すみ(たなかすみこ)が関わっているらしい」という噂が立って同級生が真相を問いただしたという話が伝わっている。

いろいろな事情はあるにしても本場ヨーロッパへの音楽修行の旅。規矩士は期待に胸を奮わせていたであろう。

まだ確認は取れていないのだが、在外研究員として留学をするには「助教授」でないと出来なかったのかもしれない。出発直前の2月9日に慌ただしく助教授となっての出発であった。

この当時ヨーロッパに行くには「シベリア鉄道」と「航路」があった。規矩士は「航路」を選んだ。理由はわからないが、この留学の時、規矩士は31歳。そんなに若くもないので、旅行期間は15日と短いが、体力的にきつい「シベリア鉄道」ではなく、40日と時間はかかるがそんなに体力的にきつくないと伝えられている「航路」を選んだのかもしれない。

しかし航路はシベリア鉄道より時間がかかる故、高額であったらしい。(と何かに書いてあったのですが、出典が思い出せないです。すみません)

ちなみに規矩士の弟子豊増昇はシベリア鉄道でヨーロッパに留学したのであった。

船上での規矩士。船は日本郵船熱田丸であったようだ。横浜から乗船したと伝えられている。この見送りにすみこが行ったという話も伝えられている。

熱田丸にて。後列右から2人目が規矩士。

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船上にて。

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『戦前日本とその支配地域の船会社(欧米方面への遠洋航路)』

http://www.tt-museum.jp/gara4.html

このウェブサイトによると到着地はロンドン。経由地でヨーロッパなのはナポリくらいしかないので、熱田丸のあとどうやってベルリンに向かったのかは伝わっていない。筆者はロンドンまで行って大陸に渡って(ハンブルグかな?)陸路ベルリンに向かったのでは?と推測をしている。

このような写真も伝わっている。よく見るとブレーメンと鐘に書いてあるように思える。

左から2番目が規矩士。右の手すりの上に乗って鐘によりかかっている人物は笈田光吉ではないかと推測するが、筆者はわからない。この写真には当時ベルリンにいた日本人が写っているのではと思うが?

(お判りの方、どうぞ情報をお寄せください)

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