田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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43.田中規矩士ものがたり4-1 規矩士とすみこの戦争1 昭和16年ごろ

規矩士とすみこが結婚した3年後の1933(昭和8)年、ドイツは「ナチス党」が政権奪取。不穏な空気が流れだす。1939(昭和14)年にはヨーロッパではとうとう第二次世界大戦勃発。戦争が始まってしまった。1918年の第一次世界大戦終結からたった21年しか経っていなかった。ヨーロッパは大混乱となった。

それ以前に1932(昭和7)年の満州事変、1937(昭和12)年の日中戦争と日本も不穏な空気が流れだす。すみこの同級生伊藤武雄は、上海の戦線で右手を負傷してしまった。1938(昭和13)年にはすみこの姉の夫が戦死したと、すみこが書いている。

 

このような不穏な状況であったこの時代について規矩士、すみこ両人ともほとんど書き残していない。すみこの著書『虹色のひらめき』にはいきなり太平洋戦争末期の防空壕の話となっている。旧宅に残されていた資料も少ない。

しかしこの時代の東京音楽学校に関しては証言をする人も多く、そしてこの時代に学生時代を送った卒業生も多く回顧録を出版している。そして東京音楽学校の後継となった東京藝術大学でも『東京芸術大学百年史』として記録を出版している。素人、そして在野で遺品整理をした筆者としてはこれは本当に助かった。これらの記録を公表してくださった組織、機関、回顧録を出版してくださった諸氏に感謝を申し上げたい。ありがとうございました。(深くお辞儀)

さて、これらの本、資料などから規矩士とすみこの戦争を辿っていきたいと思う。

1932(昭和7)年の満州事変、1937(昭和12)年の日中戦争。このころから「音楽は不要不急」と言われ出す。

1938(昭和13)年に甲種師範科に入学された森脇憲三氏という方が書いている。

(以下引用)

「上野をつぶせ!」(上野というのは東京音楽学校の俗称)

上野をつぶせという乱暴な考えが陸軍から出た。昭和15年秋、皇紀2600年の式典が皇居前広場で行われた後である。この戦時下、(日中戦争は既に勃発していました)のんびり歌を歌ったり、ピアノ、ヴァイオリンを弾いている時ではない。

東京音楽学校などいらない。国民の士気を弱めるだけだ。つぶしてしまえ!」

森脇氏が校長に呼び出された。森脇氏は広島師範学校を卒業。そして広島で小学校の先生をして、それから東京音楽学校に入学してきて、短期現役兵として兵役を終わっていて、士官の適任証を持っていた。

 

乗杉校長と配属将校は言う。

「今年の学校教練査閲の結果が悪かったら、東京音楽学校はつぶされてしまう。陸軍はそう決めてしまっている」

 

師範科には短期現役兵を終わった学生がいるが、それもほんの少数。

「他はピアノを弾いたり、ヴァイオリンを弾いたりしている『カマキリやキリギリス』のようなひ弱なヤツばかりである。」

森脇氏は「全学生にきちんと説明してください」と念を押し、学校教練査閲の総指揮を引き受けた。

 

当日は陸軍中将の査閲官とか5,6人がやって来た。

学生たちは「東京音楽学校が潰されたら大変」ということで頑張ったようだ。

「学生の意気盛ん。適切なる戦闘指揮ぶりは、東京都内専門学校の最高であった」

とお褒めの言葉をいただいた。(『東京芸術大学百年史』1534ページ。筆者意訳。元の原稿は『西日本新聞』平成5年10月10日から10月17日までの記事だそうです)

と、このようにこの戦争の時代、絶えず「東京音楽学校廃校」の話は出ていたようだ。

(筆者心の声。いつの時代にも何かがあると「音楽不要」になっちゃうんだな.....。凹)

しかし学生は「なんでまた軍事教練しなくちゃいけないんだ?」とか、「軍事教練するくらいなら、練習したい」という思いの方が強く、「乗杉校長の軍部へのご機嫌取り」に不満を持っていたようである。

畑中良輔の著書には1941(昭和16)年の入学式の様子が書かれている。

「乗杉校長の訓辞は『この非常時体制に、ただでさえ軟弱な学校と思われがちな当校にあって、他校にも勝る軍事教練を徹底するように』と激しい口調で、配属将校に視線を移した。」(『音楽青年誕生物語』13ページ)

乗杉校長としては、「東京音楽学校が廃校になったら困るから」という思いであっただろうと筆者は推測するわけであるが。

 

この前年1940(昭和15)年は紀元二千六百年記念行事で東京音楽学校でも記念演奏会があったようだが、規矩士すみこ夫妻は何も語っていない。

1941(昭和16)年、学校報国隊の結成。この学校報国隊の第二大隊長(附)に田中教授とある。同僚のオルガン科教授の眞篠俊雄と一緒に学校報国隊第二大隊長をすることになったようだ。(『東京芸術大学百年史』1431ページ、1432ページ)

この学校報国隊とは軍事教練、勤労動員学徒を編成、学校を空襲から守る諸々の行動をとるために学校を軍隊組織のようにしたもののようである。

第二大隊は女子生徒の隊であったそうである。(畑中良輔著『音楽青年誕生物語242ページ』

同じ1941(昭和16)年11月11日付けで、規矩士は勲六等瑞宝章授与。一緒に第二大隊長をする眞篠俊雄と一緒の授与であった。

『官報 1941年11月20日

dl.ndl.go.jp

コマ8右ページ(p.610)の1段目、昭和16年11月11日「叙勲六等瑞宝章」の項目に掲載されている。