田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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49.田中規矩士ものがたり4-7 規矩士とすみこの戦争7 

すみこが書き残したものによれば、地方から東京音楽学校に入学する生徒たちの住居にも困難が生じるようになってくる。規矩士すみこ夫妻はそんな門下生を自宅に下宿をさせたりしていたようだ。

後に愛知教育大学教授となった今岡静子が「規矩士すみこ夫妻の家に下宿をした」と書いている。

食糧事情もだんだん悪くなってきた。

後に声楽家として昭和音楽大学教授、カーネギーホールで日本歌曲のリサイタルをした上浪明子が「規矩士すみこ夫妻にご馳走になった」と書いている。

学徒出陣前に「歓待をしてもらった」生徒もいたようだ。

 

1943(昭和18)年10月にはあの明治神宮外苑競技場での「出陣学徒壮行会」があり、東京音楽学校も参加した。これに規矩士が行ったのかどうかはわからない。

どちらにしても、勤労動員が多く、授業もレッスンもままならなくなったようである。規矩士はどうしていたのだろう?すみこの「すみれ会」は『虹色のひらめき』によると、戦争が激化するにつれて教室を閉じる音楽教室も多かったが、すみれ会は戦争中も継続した。「庭には大きな防空壕を作って、空襲警報が鳴ると生徒と避難。庭には菜園を作って食糧難を乗り越えた。」とある。(113ページから116ページ)

規矩士は自宅での個人レッスンに切り替えて、なんとかレッスンだけは続けたのでは?と推測する。

二人は疎開は考えなかったのか?

すみこが後ににしきさゆりに

「ここ(規矩士すみこの自宅)は郊外だし、軍需工場が近くにある訳ではないので、空襲は大丈夫と思った」と語っているそうである。

この家には規矩士の母もいた。この当時70歳代後半であった規矩士の母を連れての疎開は「難しい」と思ったのかもしれない。

すみこの教室に通う「みどり」ちゃんが描いた防空壕の絵。シャベルをもつ「おじちゃん」はひょっとして規矩士のことかもしれない。

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そして1945(昭和20)年3月10日未明。東京大空襲ホリプロ創業者の堀威夫氏は、「横浜からも夜空が真っ赤に染まるのが見えた」と書いている。(2021年2月5日日本経済新聞私の履歴書より

のちにすみこも「東の空が真っ赤になって怖かった」と、にしきさゆりに語ったそうである。