1945(昭和20)年『東京芸術大学百年史』によると、4月30日、規矩士は教授職を辞任。講師となる。
何があったのかはわからない。この辞任もすみこは何も言っていない。すみこは「最後まで教授だった」と言っているのである。ただ東京芸術大学だけに記録が残っているのである。
しかし教授職も高齢になると辞任が出来るようである。当時「定年」というのはなかったかもしれなく、何歳になったら引退というのも決まってはいなかったようである(要確認)。規矩士より年長の同僚、高折宮次はそのまま教授であった。
当時教員だった水谷達夫が「勤労動員で工場に行くにあたって教員が引率した。引率する教員が平の教員だと行った先の工場が困るようで、若い教員をどんどん教授にした」(東京藝術大学百年史1500ページ)と証言している。
(この水谷達夫氏も規矩士の弟子と伝わるが、まだ確認が取れていない)
規矩士は47歳だった。何か考えがあったのだろうか?
それとも「若いのに教授職を譲ろう」と考えたのだろうか?教授であると例えば勤労動員の引率をしなくてはならない。報国隊として学校に常駐しなくてはならない。学校報国隊の大隊長でもあった。そういうのが負担になってしまったのだろうか?
『東京芸術大学百年史』の口絵の卒業集合写真1944(昭和19)年9月のものに規矩士が写っている。見たところかなりやつれて見える。元々胃が弱かったと伝えられている。何か体調でも崩したのであろうか?