田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

まずは右側サイドバー(スマホタブレットはスクロール)の「はじめに」からお読みください。情報が順次更新されていますので、「更新記録」も読んでいただけますようお願い申し上げます。

51.田中規矩士ものがたり5-1 規矩士の戦後 東京音楽学校退職

破壊し尽くしたあの悲惨な戦争が終わった。世の中が少し明るさを取り戻したようだ。

あの8月15日の日を規矩士とすみこはどうやって過ごしたのかは伝わっていない。

幸いなことに規矩士とすみこの家は空襲の被害に遭わないで戦争を乗り越えることが出来た。

東京音楽学校では9月、卒業式が行われ、規矩士は出席。東京芸術大学百年史』の口絵の集合写真に、比較的おだやかな顔で最前列で写っている。乗杉校長も写っている。しかし乗杉校長はその後半ば戦犯扱いになってしまったようで、10月にひっそりと退職をした。そして1947(昭和22)年に亡くなった。享年69歳。

乗杉校長が去ったあと、東京音楽学校では大変なことが起こってしまった。

 

乗杉校長が辞任した後、田中耕太郎氏がほんの少し「校長事務取扱」ということで就任。その後1946(昭和21)年1月より東北帝国大学教授の小宮豊隆氏が校長になった。

この小宮校長時代に大事件が発生。

しかしこの大事件の記録は『東京芸術大学百年史』には学校にはないと書かれている。

東京芸術大学百年史』には、当時の新聞報道が掲載されている。

毎日新聞昭和21年6月4日記事には、

「同校(東京音楽学校のこと)の建て直しを企て、ひとまず白紙に戻って再出発する方針で、全教職員に辞表の提出を求め再建にとりかかっている」(『東京芸術大学百年史』1450ページ)

規矩士も辞表を提出したのであろうか?

同じ記事によると「この音楽学校問題の起こりは、敗戦後各方面に起こった民主化運動と同様、昨年10月から教職員の間に、過去17年間にわたる乗杉前校長のやり方に対する批判が行われ、50余名の全教職員が、10数回の全体職員会議を開き討議した結果、(中略)人事の刷新明朗を図ることなどを決議」

「乗杉前校長の方針にあずかった責任で、高折宮次(ピアノ)、遠藤宏(音楽史)、木下保(声楽)、橋本國彦(作曲)、井上武雄(ヴァイオリン)、平井保三(チェロ)の六氏、行き過ぎた外人排斥で井口基成(ピアノ)を退職させる」

敗戦後各方面に起こった民主化運動の嵐が、東京音楽学校でも吹き荒れたようである。

そして昭和21年9月5日付け読売新聞によれば、「先の6名の他にも、宇佐美ため(ピアノ)、平井保喜(作曲)、永田晴(管弦楽)らも罷免。留任を伝えられている福井直俊(ピアノ)、田中規矩士(ピアノ)の両教授の去就も危ぶまれている」

この当時規矩士は教授ではなかったのだが、1945年(昭和20)4月まで教授だったので、教授とみられていたようだ。

この人事に小宮校長対元東京音楽学校の教職員によって組織された改革実行委員会が衝突。この改革実行委員会の中心メンバーに規矩士の弟子、豊増昇がいたようである。

これらの新聞記事によると1946(昭和21)年の1学期はほとんど授業にならなかったようだ。

井口基成の自伝によれば、「つるし上げ」もあったようで、教職員の間は険悪な雰囲気であったようだ。

この騒動で規矩士は東京音楽学校勤務に嫌気が差したのかもしれない。それとも何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。詳細はわからないが、1923年(大正12)から困難な戦争中も勤め上げた母校、東京音楽学校を1946年(昭和21年)9月で退職をするのであった。23年の奉職であった。規矩士48歳。