退職後、規矩士は自宅でひっそりと個人教授をしていたようだ。旧宅にはタイプライターで打たれているプログラムが残っていた。謄写版印刷のプログラムもある。
自宅スタジオにての演奏会開催。そして妻、すみこと二台ピアノのレパートリー作りを考えていたようでもある。
1947(昭和22)年10月26日 ホームコンサート 於自宅スタジオ
サン・サーンス:ベートーヴェンの主題による変奏曲作品35
1948(昭和23)年3月7日Welcome Recital for Plumb-san 於自宅スタジオ
チャイコフスキー:悲愴
1948(昭和23)年5月19日 ホームコンサート 於自宅スタジオ
ショパン:ロンド 作品73
音楽年鑑も1949(昭和24)年、1950(昭和25)年は記載がない。1951(昭和26)年に武蔵野音楽大学教授として記載がある。(これはお茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授の間違いかもしれない)
しかし門下生発表会を1950(昭和25)年12月22日(金)読売ホールで開催。この年はバッハ没後200年のメモリアルイヤーでもあった。
プログラム。裏にすみこの2番目の著作の宣伝がある。
そして規矩士の蔵書としてラヴェルなどのフランス近代の楽譜が多く残されていた。出版年代を見ると戦後まもなくのものが多い。この謹慎蟄居時代にフランス近代のレパートリーを作ろうとしたのであろうか?
次に規矩士の名前が出てくるのが、官報である。
昭和25年3月1日第6939号 「叙任及び辞令」昭和24年6月1日 文部事務官→教官に任命する 二級に叙する。(事務官と教官を間違えました。2024年3月23日記)
昭和26年6月21日第7333号 お茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授に補する
伝えられているものでは、1950(昭和25)年に東京女子高等師範学校に勤務とあるので、この文部事務官がそれなのかもしれません。(要確認)
そして1951(昭和26)年お茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授を1年奉職したと思われる。
お茶の水女子大学東京女子高等師範学校時代の写真と思われる。中庭にて。
破顔一笑。戦後の明るい世相が見えるような写真である。
園田誠一と。園田誠一はすみこの同級生であった。これも楽しそうな写真である。