田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

まずは右側サイドバー(スマホタブレットはスクロール)の「はじめに」からお読みください。情報が順次更新されていますので、「更新記録」も読んでいただけますようお願い申し上げます。

53.田中規矩士ものがたり5-3 武蔵野音楽大学 フェリス女学院短期大学

武蔵野音楽大学発行三十年の歩み」(発行1959年昭和34年)という冊子がある。これはにしきさゆりが持っていたものである。

f:id:tanakairoonpu:20220108022815j:plain

それに「昭和24年の大学移行の回顧」というページがあり、大学移行、創立20周年を祝して教職員一同という写真があった。規矩士が最前列右から2人目に写っている。

 

f:id:tanakairoonpu:20220108023901p:plain

 

ということは、この1949(昭和24)年には規矩士は武蔵野音楽学校そして武蔵野音楽大学に勤務していたと思う。身分は講師か?その後1952(昭和27)年より教授と思われる。(武蔵野音楽大学にはまだ確認が取れていない)

そしてフェリス女学院には1951(昭和26)年から講師として勤務されたということである。(親族がフェリス女学院に確認済)

1953(昭和28)年11月14日(土)には「施設拡充」として、こんなコンサートにも出演したようである。弟子の豊増昇、中田喜直も一緒である。

f:id:tanakairoonpu:20211225011014j:plain

フェリス時代の写真と思われる。フェリスの講堂にて。

規矩士は座っている最前列右から7番目である。

f:id:tanakairoonpu:20220108024329j:plain

 

これもフェリス女学院での写真と思われる。こちらも楽しそうな写真である。規矩士は右から2番目。右から5番目にすみこが写っている。前列座っている右端は豊増昇。

f:id:tanakairoonpu:20220108024507j:plain

戦後の規矩士の職歴は、推測ですが、(確認が取れていないので)

1949(昭和24)年に武蔵野音楽大学講師、1950(昭和25)年に東京女子高等師範学校講師、1951(昭和26)年にお茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授、1951(昭和26)年よりフェリス女学院短期大学音楽科講師、1952(昭和27)年に武蔵野音楽大学教授。お茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授は退職。ではないかと思う。

武蔵野音楽大学のご縁は何処からやってきたのだろうか?規矩士は武蔵野音楽大学創立者の長男で、東京音楽学校ピアノ科教授であった福井直俊と親しかったかもしれない。東京音楽学校に残る集合写真にも並んでいるものがあるが、なんとなく穏やかな雰囲気で、「親しかったのか」と思わせるものがある。あの粛清人事の時、ひょっとしたら福井直俊が声をかけ、創立者で当時学長だった父、福井直秋に紹介をしたのかもしれない。推測ではあるが。

にしきさゆりが聞いた話では、「『田中規矩士のような素晴らしい先生がフリーである。これはすぐ我が武蔵野音楽大学にお迎えしなくては』と福井直秋学長(当時)が言ったから、武蔵野の先生になられた」だそうである。

フェリス女学院短期大学音楽科は規矩士の弟子と伝わる三宅洋一郎が創立の労をとった。規矩士はあの粛清人事の後、三宅洋一郎の紹介でフェリスに勤務するようになったのであろう。

お茶の水女子大学東京女子高等師範学校は当時教授だった園田誠一の紹介かもしれない。(推測)

 

東京音楽学校の粛清人事に巻き込まれたが、規矩士の第二の人生は周りの尽力で充実したものであったようだ。

どこかの女子大生に囲まれてまんざらでもない規矩士(^.^)

f:id:tanakairoonpu:20220108025017j:plain

そして規矩士はこれらの学校にはすみこ手作りのお弁当を持っていったと伝えられている。すみこのお弁当はキャラ弁で蓋をあけると万国旗が飛び出してきたそうである。この「すみこのお弁当」は有名だったようで、武蔵野音楽大学の教員室では話題になっていたそうである。

そして恩師クロイツァーは、1953(昭和28)年10月に急死した。お葬式には弟子一門が勢揃いしたようである。これに規矩士、すみこが行ったかどうかはわからない。多分参列したと思うが、萩谷由喜子氏の本には記載がない。