ミッドウェー海戦に大敗したことで、軍は「これからの戦争は大型戦艦ではなく、航空機」と認識を大きく変えたようだ。「空を制したものが勝利する」と認識した。「戦争への勝利は航空機増産!」
飛行機工場増設!航空機大増産!それには工場に人員がいる!だったら学生に勤労動員させちゃおう!
官立の東京音楽学校も例外ではない。学生がいろいろな工場に動員されていったそうだ。「音楽学生は耳がいいので、音で敵機の種類がわかるかも」といって、偵察部隊に動員されたという奇妙な話もある。
さて、このような例えば工場動員の場合、たいていが教授、助教授といった学校でも地位の高い教員が引率したそうである。この引率を規矩士がやったという話は現在の所わかっていない。規矩士は学校報国隊第二大隊長附なのだが。
この「航空機増産」の掛け声もあり、この1943(昭和18)年「航空機を国家に献納する」というのが流行ったのだそうだ。「航空機献納運動」は1932(昭和7)年あたりから始まったが、盛んになったのは太平洋戦争開戦後とのことである。
どちらにしても「航空機を作る」にはおカネが要る。「国家総動員法」もある。ということで、国民(この時代は臣民と言うべきか)は、「飛行機増産」のために、「寄付する」行為が大いに推奨されることになる。
東京音楽学校でもこの動きに同調したものと考えられる。私学だが京都の立命館でも同じように学校法人が「戦闘機献納」をやったようである。
この「戦闘機献納」は立命館総長は合計2000円(現在の貨幣価値ではどのくらいかわかりませんが、大金であったと思う)寄付。その他にも寄付した関係者がいたようである。そして、献納の式典のパンフレットには、茶道の「表千家」も飛行機1台分寄付したこと(多分)が記載されている。
これらのことから東京音楽学校教授である規矩士も寄付をすることは当然とされたと推測する。広告には明記されていないが、ひょっとして11月8日の演奏会はチャリティーであると言われていたのかもしれない。
「戦闘機を献納するために、チャリティーコンサートを開催します。」これも「国威掲揚」「戦争遂行」の絶好の「宣伝」となったと思う。
この「東京音楽学校における戦闘機献納」に寄付をしたのは、規矩士だけだったのだろうか?筆者の推測では、他の教授陣も寄付したのでは?と思うが、まだ資料が出てきていないのかもしれない。
そしてこの世論の中、すみこがクラスメイトに「戦闘機献納したのよ」と書き送ったのかもしれない。
「音楽文化不要論」吹きすさび、規矩士、すみこにとって愛する母校「東京音楽学校」が廃校になってしまうかもしれないこの時代、「国家に協力」して何とか廃校を免れたい思いが、このチャリティーコンサートにあったかと、筆者は思いを巡らしている。
元々敏腕文部官僚だった乗杉校長もあちらこちらの関係者にご機嫌伺いをして、廃校にならないように動いているように見受けられる。
こうやって「戦闘機献納」のために資金をかき集め、「戦闘機増産」のために工場を作ったのだが......。