田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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46.田中規矩士ものがたり4-4 規矩士とすみこの戦争4 2台のピアノ演奏会3

この当時航空機産業の中心は東海地方であった。名古屋近郊、そして浜松など。浜松にあったヤマハの前身日本楽器製造も楽器ではなく、航空機のプロペラを作っていたそうである。浜松は規矩士の父の郷里かもしれない。

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そして航空機発動機の4割のシェアを三菱重工業大幸工場(名古屋市北区大曾根)が負っていたそうである。

 

1944(昭和19)年6月20日 マリアナ沖海戦大敗。マリアナ諸島が連合国の手に墜ちてしまった。当時の戦闘機の能力ではマリアナからは日本国中に空襲が出来るようになってしまった。先のにしきさゆりは言う。

「大人たちが『えらいことになった』とヒソヒソ話をしていた。子供心にとても怖かった」

連合国はマリアナ諸島に大規模な滑走路を建設。空母が運用できるように港湾も整備。11月になると偵察と称して連合国の航空機が飛来するようになってしまった。

1944(昭和19)年12月7日午後1時36分、熊野灘震源とする東南海地震発生。マグニチュード8。熊野灘から浜名湖までの広い範囲のプレートが破壊されたそうである。御前崎震度6名古屋、浜松で震度5が観測されたそうである。名古屋も浜松もこの地震で大きな被害があった。そしてこの地震で、航空機増産のためにこの地方に多かった紡績工場を改造して航空機工場にした工場が大きな被害を被ってしまった。つまり広い場所が必要な航空機工場のために、紡績工場の柱を取ってしまっていて、耐震性が著しく低下していたのである。軍部はこの地震を隠蔽しようとしたが、地震波は世界中で記録されていて、「日本で大地震があった」というのは連合国にも丸見えであった。それが証拠に地震から6日後、三菱重工業大幸工場にマリアナから空襲があったのである。

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1945(昭和20)年1月13日午前3時38分に愛知県三河地方を震源とする三河地震発生。この地震は余震活動が活発であったことが知られている。この2つの大地震で、東海地方の航空機産業は大きな打撃を受けてしまった。

そのころ愛知県にいたにしきさゆりの話

「名古屋は工場が多いから爆弾が降ってくるのよ。上からは爆弾、地面は地震の余震で揺れっぱなし。心落ち着く余裕は全くなかった」

1945(昭和20)年になると空襲が激しい。先の三菱重工業大幸工場は当時考えられる最高の技術を使った大変に頑丈な建物だったが、度重なる空襲で最上階が吹っ飛んでしまったと伝えられている。というように大地震と空襲で、規矩士やすみこがせっかく「戦闘機献納」をしたのにそれは水の泡となってしまったのであった。

三森 弘「名古屋大学大幸キャンパスに現存する元軍需工場の空襲被害とその後の復旧状況」

日本建築学会技術報告集 第 24 巻 第 56 号,441-446,2018 年 2 月

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijt/24/56/24_441/_pdf

ちなみに大幸工場は全壊は免れた。焼け野原になってしまった愛知県下。師範学校も男子師範と岡崎にあった師範学校だけが焼け残ったそうである。戦後、残った男子師範で授業は再開されたものの老朽化と手狭で不便であったので、やはり残った大幸工場を校舎に転用。大幸工場は師範学校の後継、愛知学芸大学名古屋校舎として再出発するのであった。岡崎に残った師範学校の後継、愛知学芸大学岡崎校舎の音楽科の教授が、規矩士の門下生であった今岡静子。すみことも親しく、戦後東海地方での「いろおんぷ」の普及に貢献するのであった。

そして現在、大幸工場跡地には名古屋ドームがある。

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(この「献納」の稿、「航空機献納」「戦闘機献納」と語彙のぶれがあります。元の資料もぶれているようなので、統一はしないことにします。ご了承ください)