田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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47.田中規矩士ものがたり4-5 規矩士とすみこの戦争5 1943年(昭和18)9月の卒業式と卒業演奏の話

東京芸術大学百年史』と『演奏編』に残る規矩士の話続き。

規矩士とすみこが「航空機献納」をした同じ1943(昭和18)年9月の卒業式と卒業演奏の話。

戦況が厳しくなったこのころ、学生は半年早く卒業させられ、戦地に送り込まれていた。なので、卒業式は3月ではなく、9月に行われていた。その、9月の卒業式と卒業演奏。

先の投稿で書いたが、この時期になると戦況が好ましくない。ミッドウェー海戦大敗、ガダルカナル島撤退。イタリア降伏。ずるずると負け戦への道を辿りつつあった。

この9月に卒業した方々は有名人が多い。田村宏、中田喜直、畑中良輔。戦後日本の音楽界を牽引された方々の名前がある。

 

この年に「学生の徴兵猶予」がなくなり、学徒出陣が始まることになっていた。そろそろ男性の「根こそぎ徴兵」が始まろうとしていた。

あの有名な明治神宮外苑競技場での「出陣学徒壮行会」が同じ年の10月。『東京芸術大学百年史』によると東京音楽学校もこの壮行会に参加したのだそうだ。

この学年の方々は多くの文章を残している。。のちの東京藝術大学声楽科教授で、音楽評論の筆も取られた畑中良輔、東京藝術大学ピアノ科教授として、戦後の日本ピアノ教育界を牽引した田村宏、そして「夏の思い出」「小さい秋見つけた」「雪の降る町」を作曲した中田喜直

みんなこの1943(昭和18)年に半年早く卒業させられてしまった学生であった。

文学青年でもあった畑中良輔は「音楽○○誕生物語」として4冊の本に自伝をまとめた。田村宏も自伝を残している。中田喜直は自伝はあるのかどうかわからないが、多くの文章を遺していて、それを評伝としてまとめられている。それによると、こんな気持ちであったようだ。

田村宏は「どうせ死ぬのならひと思い」

畑中良輔は「卒業と同時に出征そして戦死」

中田喜直は「しかしあのころ、兄弟が3人いたら一人は戦争で死ななければならない時代だった。(中略)どうせ戦死するなら、中国や南の島のどことも知れぬ街やジャングルで野垂れ死にするより、いさぎよく空に散ったほうがよいと思った」(すべて筆者意訳)

中田喜直は、卒業後すぐに航空隊入隊が決まっていた。航空隊に行ったら真っ先に「戦死」である。

 

そんな想いを抱いての昭和18年9月の卒業式。3日間にわたって卒業式があった。

 

卒業式の後は卒業演奏会。筆者は『東京芸術大学百年史』演奏編に残るプログラムを見ていて愕然とした。

葛原守は「ショパン作曲幻想曲作品49」を演奏。この曲は「葬送行進曲」。

中田喜直は、「ショパン作曲ソナタ第3番作品58」を演奏。この状況で聴くと胸にずしんとくる。

そして、3日間の卒業式の卒業演奏の大トリは、田村宏。

ショパン作曲24の前奏曲集作品28」より抜粋。

普通この曲を抜粋で弾くとしたら、23番、24番は弾くことが多い。ところが20番で終わってしまった。

卒業式の最後の最後、大トリの曲が20番?

当代最高のテクニックを持つ田村宏が、超絶に演奏が難しい24番を弾かないというのはない。それが、20番で終わり。

実は20番はズバリ「葬送」。

左手はラメントバスといって、「哀しみのバス」と言われる音型である。有名な「ラメントバス」で筆者が思い浮かべるのはバッハのロ短調ミサの17曲目のクルチフィクスス(Crucifixus)。「イエスが十字架にかけられ」と歌う部分である。

大トリである田村宏は何か意図をもって20番で終わらせたのかもしれないと筆者は思っている。

あの20番で卒業式終わり?なんだか卒業生たちの何かの想いを見るようである。

 

この話は知っている方にとっては有名なのかもしれないが、筆者は知らなかったので、非常に驚いた。

 

ショパンの幻想曲を弾いた葛原守はこの後出征。フィリピンで細菌性赤痢になり、台湾の病院で亡くなり、戦病死をしたそうだ。戦没学生となってしまった。

archives.geidai.ac.jp

実はこの葛原守、そして中田喜直予科時代規矩士の指導を受け、本科で規矩士の弟子、豊増昇の指導を受けていたそうである。

この卒業演奏の曲目は事前に知らされていたのかはわからない。卒業生の集合写真が『東京芸術大学百年史』にある。田村宏の先生、永井進教授は無表情と見えるが、ピアノ科教授の福井直俊と、同じピアノ科教授の規矩士の表情が暗い。規矩士はうつむいているように見える。普通の表情の人もいるので、曲目は「多分直前まで知らされていなかったのでは?」と筆者は推測する。しかしピアノ科の先生は気が付くであろう。これが福井直俊と規矩士のあの表情なんであろうか?と思う。

つまり、卒業生が自分で自分の葬送行進曲を弾いてしまったのである。

 

規矩士の門下生の中で、この葛原守と、師範科出身の東風平恵位の2人が戦争の犠牲者になったことが現在わかっている。

後年すみこはにしきさゆりに

「規矩士先生の生徒さんも戦争の犠牲者になっちゃったの.....。」と語った。

にしきさゆりは語る。

「すみこ先生の顔に『それ以上聞くな』と書いてあったから、私はそれ以上は聞けなかったわ」