田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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27.田中規矩士ものがたり1-1

田中規矩士ものがたり   錦織麻里

(すべて敬称略とします)

主な参考文献:たなかすみこ著『虹色のひらめき...をあなたに』シンコーミュージック1984年。題名が長いので『虹色のひらめき』と略称します。

その他の参考文献は後ほどまとめて別稿にて掲載します。

田中規矩士。1897年(明治30年)9月9日神奈川県横浜市生まれ。菊の節句に生まれたので、規矩士と名付けられたそうです。兄と弟の3人兄弟の2番目。真ん中の兄弟として生まれた。

 

田中家は士族。明治維新の頃は浜松藩の士族であったらしい。1873(明治6)年に父、田中敬義が「溝口流習字」を教える家塾を開こうとしていたらしいが、詳細はわからない。規矩士の母ゑいが横浜の人なので、結婚で横浜にやってきたのかもしれない。これは推測。わかっているのは、規矩士が生まれた1897(明治30)年には田中家は横浜にいたということである。

父、田中敬義は書道、漢文の教師と子孫に伝わっているそうだが、これもはっきりしない。ダンスの教師をしていたという伝説もあるが、これもはっきりしない。

規矩士の兄、田中敬一は東京音楽学校師範科出身。兄弟そろって東京音楽学校に進学をした。

この明治の世に兄弟そろって何故「男子一生の仕事」として音楽家を志し、それを親が了承して東京音楽学校を目指せたのかもわからない。いろいろな他の人の伝記を紐解くと、「女性はいい。しかし男子一生の仕事として音楽家はどうなのか?」と反対された話が多い。その中で兄弟そろって「東京音楽学校」進学というのは謎である。しかし父、敬義が教育者かもしれないので、そのあたりは「リベラル」だったのかもしれない。それとも「西洋音楽の将来性」を見据えていたのだろうか?

西洋音楽の将来性」に関しては女性であるが橘糸重、久野久子も「将来性」ということで東京音楽学校に進学し、二人とも活躍をしている。

(訂正追記)

規矩士の幼少期、父、田中敬義が1901年(明治34年)から1908年(明治41年)まで東京音楽学校選科に在学していたことがわかりました。そして書道、漢文の教師以外にも、小学校の唱歌の教師という記録と伝承もあり、規矩士、そして兄の敬一が音楽の道を志し、東京音楽学校に進学したのは、音楽好きとも伝えられる父の意向もあったのかもしれない。

詳しくはこちら。

91.規矩士の父、田中敬義は東京音楽学校選科に在学していた。 - 田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

(2023年12月18日追記)

 

そして規矩士がいつどのようにしてピアノを始めたのかもわからない。そしていつ「東京音楽学校進学」を目指したのかもわからない。兄も「東京音楽学校」出身なので、多分兄弟そろって切磋琢磨して「西洋音楽家」の道に励んだと思われるが、これも想像の域である。

伝わっている話では、家があまり裕福でなかったが、頑張る田中兄弟の為に、横浜の西川楽器製作所の社長がピアノを提供した。そのピアノの調律を父敬義がやったという。これを妻すみこが語っているが、真偽不明である。

このWebサイトに田中敬一、規矩士の両方の記載がある。

【昭和時代初めの音楽家一覧―「洋楽界を背負って立つ人々」74人】

blog.livedoor.jp

(リンク切れだったので、2023年9月9日訂正)

田中敬一、規矩士、弟の三郎の三名の写真。弟の三郎は音楽家にならなかったそうです。大正6年1月5日。

右より敬一、三郎、樋口信幸、規矩士。

敬一は東京音楽学校を卒業している。規矩士は在学中。

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1915年(大正4年 神奈川県立第一中学校卒業。(現在の神奈川県立希望ヶ丘高校)18歳

1916年(大正5年) 東京音楽学校予科卒業。19歳

1919年(大正8年 東京音楽学校本科器楽部卒業。22歳。

規矩士が学生時代に誰に師事したのかは現在の所わかっていない。

卒業の時には栄えある卒業演奏に選ばれた。この本科の同級生に声楽家荻野綾子がいる。

荻野綾子は卒業後、詩人の深尾須磨子との共同生活が有名。深尾須磨子と一緒にパリへ留学し、フランス歌曲とハープを勉強。日本で一番初めにフランス歌曲をリサイタルで歌ったそうである。そして当時珍しいハーピストでもあり、日本におけるハーピストの先駆けになった。戦後日本におけるフランス歌曲の大先達として有名な桐朋学園大学教授古澤淑子の師でもある。

1921年(大正10年) 東京音楽学校研究科器楽部終了。24歳

1921年(大正10年)4月22日付けで神奈川県立湘南中学校教諭嘱託拝命。武蔵学園に残る規矩士の経歴書に記録がある。(2022年9月17日加筆訂正)

1922年(大正11年)4月より旧制武蔵高等学校唱歌の講師として奉職。1928年(昭和3年)のドイツ留学まで勤務していたと思われる。正式な退職は1930年(昭和5年)7月31日付け。この旧制武蔵高等学校時代に「武蔵賛歌」を作曲。25歳(2022年8月7日追記)

100nenshi.musashi.jp

武蔵学園での規矩士の話はこちら。

 

tanakairoonpu.hatenablog.jp

1923年(大正12年) 1月8日付け東京音楽学校教務嘱託。教務嘱託とは非常勤講師のことだと思います。26歳。1946年(昭和21年)9月までの長い長い東京音楽学校勤務が始まった。

昭和16年度(1941年)の大日本音楽協会編纂の音楽年鑑の田中規矩士の欄に、バルダスに師事したと書いてある。(123コマ)これはウイリー・バルダスのことではないかと推測する。

dl.ndl.go.jp

ウイリー・バルダスは東京音楽学校外国人教師で、1923年(大正12年)から1924年大正13年)まで勤務していたそうである。この当時規矩士は東京音楽学校の教員であったので、その間に個人的に師事したのだろうか?教員でも師事出来たのであろうか?

archives.geidai.ac.jp

1923年(大正12年)1月31日付けで神奈川県立湘南中学校を退職。

神奈川県立湘南中学校時代の話は詳細は現在の所わからないが、この年に退職をしたのはおそらく東京音楽学校に勤務することになったからと推測する。

つまり、規矩士は神奈川県立湘南中学校、旧制武蔵高等学校、そして東京音楽学校に勤務をしていくのであった。(2022年9月17日追記)