田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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91.規矩士の父、田中敬義は東京音楽学校選科に在学していた。

(2023年12月18日投稿)

田中規矩士、田中敬一、そして田中三郎の父、田中敬義は、東京音楽学校の選科に在学していたことがわかりました。

東京音楽学校在籍者検索】というサイトで検索をかけてみたら出ました。このサイトによると1901年(明治34年)から1908年(明治41年)まで選科に在籍していました。学籍があったということです。専攻はピアノのようです。(Pはピアノの略)

(氏名の欄に「田中」、出身地の欄に「神奈川」とすると出ます。)

http://fms.ms.geidai.ac.jp/fmi/iwp/cgi?-db=%EF%BC%96%EF%BC%8E%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%AD%A6%E6%A0%A1DB&-loadframes

1854年生まれの敬義が入学をしたのは47歳の時。長兄田中敬一が1890年(明治23年)の生まれ。田中規矩士は1897年(明治30年)生まれ。彼らが子どものころ、父敬義氏は東京音楽学校選科に在学していたということです。

 

規矩士の弟、田中三郎の日記によれば1903年明治36年)、横浜の本町小学校に勤務していたそうです。

この頃敬義は小学校勤務をしながら東京音楽学校選科に在籍して、音楽を学んでいたということがわかりました。

なぜ小学校の先生だった敬義が。東京音楽学校の選科で音楽を学ぶことになったのかはわからない。ただ三郎の日記にも伝承でも敬義は「音楽好き」と伝えられている。のちの規矩士の妻、たなかすみこは「規矩士先生のお父様は音楽の先生だったのよ」と言っている。

1885年(明治18年)横浜の地で創業した西川オルガン製作所の所長、西川虎吉氏とも親しかったらしい。規矩士の弟、三郎の日記には、「家には西川製のオルガンやピアノがあった」と書かれている。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

横浜の地で何かきっかけがあって西洋音楽に目覚めたのかもしれない。それが小学校で音楽を教えるということに繋がったのかもしれない。しかしそれは見よう見まねだったかもしれず。見よう見まねではうまくいかないことに気が付いて、東京音楽学校で本格的に勉強をすることにしたのかもしれない。これは推測です。

「田中三郎の日記」から敬義もよく東京音楽学校の演奏会に出かけていて、中に知り合いがいたようで挨拶をしている記述がある。敬義も「東京音楽学校関係者」であった。

 

さて、敬義は東京音楽学校で、本科や師範科で学ぶ学生を見たと思う。

「音楽を本格的に志すなら、もっと若い時から本科や師範科できちんと勉強をしなくてはいけないんだな。」

おそらく自分が果たせなかった夢を、敬一と規矩士の息子二人に託したように思う。

「音楽は男子一生の仕事ではない」と言われたこの時代に、兄弟そろって東京音楽学校に進学をした。珍しいと思っていたが、そういうことかもしれない。

長じて長男敬一は師範科を卒業。唱歌教育の分野と和声学の分野での活躍をした。次男規矩士は東京音楽学校本科ピアノ専攻を卒業。研究科まで進んで、官費留学でドイツはベルリンに留学。東京音楽学校教授になった。

二人は敬義の夢を果たしたのであった。とくに官費留学をしている規矩士のことは、父、敬義はどんなに得意だったろうか?