田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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90.ウェブサイト「遥かなる遠き伯林の空より~田中規矩士の手紙」を公開します

(2023年9月15日投稿)

田中規矩士は1928年(昭和3年)に文部省在外研究員としてドイツ国ベルリンに行きました。その時、婚約者のたなかすみこ(旧姓黒澤すみ)とその家族に手紙を多く書きました。その手紙が田中旧宅に残されていました。


1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)まで足かけ3年の間の手紙です。
この手紙の翻刻を中の人が手掛けています。これを公開します。

tanakairoonpu.hateblo.jp


この当時、婚約者たなかすみこはまだ東京音楽学校の生徒でした。すみこが東京音楽学校を卒業をするのが1930年(昭和5年)。そして田中規矩士が日本に帰朝するのも同じ1930年(昭和5年)。
帰国後田中規矩士はすぐに東京音楽学校教授となり、10月(と伝えられています)に婚約者で、東京音楽学校を卒業していたすみこと結婚しました。


手紙はすみこ宛と黒澤家のすみこの母、姉、妹宛てでした。封筒の宛先は、母や姉の連名宛となっています。昭和初期、東京音楽学校の生徒であるすみこのことを考えてそうしたのだと思います。まだそういう時代でした。


遠いドイツでの留学生活。日本では父、母、兄弟3人で仲良く暮らしていたのに、いきなり一人で異国の地に立った規矩士。
(長兄敬一は1926年大正15年に亡くなってしまいました。)
「本場の音楽を学び、一つでも何かをつかんで帰る」と意気込むものの、やはり100年近く前の異国の地。今よりもっともっと生活もカルチャーも違っていたと思います。
ニュース一つとっても日本のニュースはほぼ届かない。やっと何週間か遅れて新聞が読める程度。リアルタイムであらゆる世界の情報が手に取るようにわかる現代とは全く違うと思います。まさに異世界
この時代は、まだ人種差別もあったでしょう。東洋の顔立ちの規矩士は残念ながら差別される方です。あまり書いていらっしゃいませんが、それらしきものも匂わせているように感じます。
「淋しい」「望郷」という文言がふと出てきてしまいます。


規矩士はどうやらドイツの食べ物が合わないようです。
弟、三郎さんの日記によると、田中家では天丼、親子丼、うなぎがお好きなようです。田中家は甘党のようで、なんと夕食に「しるこ」を食べています。(中の人は「お汁粉はおやつでしょ?」と思いますが。ちょっとビックリ)
それがいきなり「ソーセージ」だの「ハム」だの「アイスバイン」です。
将来の妻すみこに「料理の研究を頼む」と何回も書いています。かなり辛そうです。


しかし婚約者すみこの実家、黒澤家では規矩士の留学生活が少しでも「快い生活」になるよう何くれとなくお世話をしているようです。父、貞次郎氏はアメリカ帰り。母、きく氏は共立女学校ということで、外国人の知り合いも多かったかな?と思います。なので、「異国の地に暮らす」ということがどういうことかということを知っていたと思います。黒澤家のさりげない配慮が見えています。
まだざっと見ただけなのですが、どうもフルトヴェングラーラフマニノフの実演にも接しているようです。流石ベルリンです。

ベルリンではレオニード・クロイツァーに師事。このクロイツァーの話題も多く出てきています。

コツコツと翻刻を進めたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。