田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

まずは右側サイドバー(スマホタブレットはスクロール)の「はじめに」からお読みください。情報が順次更新されていますので、「更新記録」も読んでいただけますようお願い申し上げます。

89田中規矩士ものがたり補遺5.規矩士の門下生?井口秋子の話。(2023年9月10日投稿)

(2023年9月10日投稿)

『現代音楽大観』 東京日日通信社 編 1927年(昭和2年)に以下のような記述がありました。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1173920/1/638

国立国会図書館の登録利用者(本登録)をすると中身が見られます。

 

澤崎秋子

「(前略)明治38年11月1日父君の任地呉市に生まれ、小学生時代よりピアノに堪能なりし姉君の感化を受けて音楽に興味を抱きオルガンを学び、東京府立第三高等女学校2学年より特に高折宮次氏および田中規矩士氏に師事してピアノの研習に努めてきた。大正12年東京音楽学校器楽部に入り、小倉末子、コハンスキー教授などの指導を受けてピアノを専攻し、昭和2年4月に卒業した。(後略)」(113ページ)

 

澤崎秋子とは?のちの井口秋子氏のことです。

井口秋子

1905(明治38年)~1984(昭和59年)。旧姓澤崎。(澤嵜とも)澤﨑秋と名乗られているものもあるようです。

広島県呉市に生まれ、幼少の時より東京在住。東京音楽学校を卒業後ただちに同校にて教鞭をとる。ピアニストとしても活躍。1931年(昭和6年)ドイツに留学。ベルリンにてレオニード・クロイツァーに師事。1936年(昭和11年)、同僚だった井口基成と結婚。東京音楽学校退職。戦後は夫、井口基成が創設した桐朋学園などで教鞭をとる。1955年(昭和30年)東京藝術大学教授。1960年(昭和35年)ごろ夫、井口基成の不貞で離婚。1984年(昭和59年)没。

blog.goo.ne.jp

門下生は有名なピアニストになられた方がたくさんいらっしゃいます。音楽界の大御所として活躍されました。レオニード・クロイツァー教授を記念する「クロイツァー記念会」第二代会長としても活躍。

以下の動画のサムネ、2分5秒あたりの画像の右端が井口秋子。ちなみに後列右から2番目(少し頭が切れている)が田中規矩士。

【Leonid Kreutzer plays Chopin's Ballade No. 3 in A flat Opus 47 (1928)】

この動画は、田中規矩士がベルリンに留学していたころの恩師クロイツァー教授の演奏です。

www.youtube.com

さて、『現代音楽大観』には田中規矩士に師事したと書いてあります。この記事だけではいつ師事されたのかはわかりません。文章からの推測ですが、東京音楽学校受験前に師事したかと思います。

田中規矩士の弟、『田中三郎の日記』には、関東大震災で罹災してしまった田中家に、澤﨑秋という方が手紙をくれたとあります。この手紙は「見舞い状」でしょう。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

この澤﨑秋はのちの井口秋子だと思います。

そして1956(昭和31年)年9月28日日本青年館にて、規矩士を偲ぶ「故田中規矩士先生記念演奏会」が行われ、井口秋子氏がレオニード・コハンスキーとラフマニノフの《組曲第2番》を演奏している。

右から4番目が井口秋子。

旧宅から「井口秋子・井口基成ピアノ二重奏の会」1950年(昭和25年)3月30日に日比谷公会堂で行われた演奏会のプログラムが出てきている。プログラムがあるということは、田中規矩士が演奏会に出かけたのでは?と推測している。

 

これらのことから、井口秋子も田中規矩士の門下生であったと思います。元夫である井口基成も田中規矩士門下生だったので、夫妻そろって田中規矩士を知っていたと思います。お二人で規矩士の話題が出たことでしょう。きっと。

(24.田中規矩士経歴の「著名な教え子」の記述に付け加えます)

 

中の人のピアノの恩師(たなかすみこではない)の先生が井口秋子だったりする。なんだかいろいろな所でクロイツァー教授に繋がるんですよね私。

たなかすみこ先生が「ショパンをやるなら『クロイツァー版』でなさいね」とおっしゃったのですが、若かった私、「よくわかんない」とあまりよく見なかったのですが、今回改めて見て「これは『クロイツァー先生誌上レッスン』だな。面白い」と見入ってしまいました。ピアノの恩師をふと思い出して懐かしく感じました。