田中規矩士は東京音楽学校を卒業した後、神奈川県立湘南中学校に勤務。そして1922年(大正11年)、旧制武蔵高等学校開校時より、唱歌の講師として奉職しました。
そして1928年(昭和3年)のドイツ留学の直前までは武蔵高等学校に勤務していたと思われます。
武蔵学園のシンボル。講堂。(2022年4月、中の人写す)
さて、規矩士がどのような授業をしたのか?これは同窓会報に教え子の投稿があったので紹介をする。
武蔵高等学校同窓会報第21号(昭和54年12月1日発行)より。
書かれたのは2期生の浪江虔氏。
「田中規矩士先生は12、3歳の少年どもの『唱歌の先生』としては全くもったいない先生であった。既にピアニストとして名をなしておられ、またある四重奏団のヴィオラ奏者でもあった。
しかし先生はその名の通り謹厳かつ誠実な方で、私ども相手の音楽教育に情熱を注いでくださったのである。」
武蔵高等学校同窓会報24号(昭和57年12月1日発行)より。
同じく2期生の臼井武夫氏は書く。
「音楽の時間。
音楽担当は上野(筆者注。東京音楽学校のこと)のピアノの講師田中規矩士先生で、原則として唱歌を、希望者にはピアノやヴァイオリン等の器楽を、そしてコーラスの指導もされた。少ない授業時間ではあったが、教科書にはコールユーブンゲンを使い、本格的な基礎教育を施された。学期末には筆記試験があって、中の一題に短い歌詞に譜を付ける、つまり作曲まで入っていた」(中略)
コーラスではハイドンの天地創造や兵士の合唱その他を練習した。皆原語であった。(日本語訳ではないという意味)私は今でもこのハイドンのオラトリオの三重唱つき合唱曲の始めの方は記憶している。」(46ページ47ページ)
この臼井武夫氏はのちにNHK交響楽団の会員になる位に音楽好きになったようで、NHK交響楽団のプログラム会報誌に田中規矩士の音楽の授業について一文を寄せています。
その中に、「同級生に後に新響(のちのNHK交響楽団)のヴィオラ奏者になった喜安三郎という方がいた」と書いてあります。この人については以下のサイトに「戦死」とありますが、詳しいことはわかりません。規矩士が武蔵高等学校で教えた生徒で音楽に進んだのかもしれません。
ちなみにこの山田一雄も田中規矩士の東京音楽学校の門下生でした。
そして規矩士の弟の日記によると1923年(大正12年)と1924年(大正13年)の出校日は火曜日であったようです。
そして武蔵高等学校には1923年10月31日、天長節祝日に天長節挙式という祝賀行事が行われ、「君が代を規矩士がヴァイオリンで演奏した」という記録が残っているそうである。(旧制武蔵高等学校記録編年史より)
他資料からも規矩士がヴァイオリンまたはヴィオラが弾けたらしい。そして弟の日記にも
「規矩士兄は本日音楽学校のオーケストラ練習の由。」
「規矩士兄は今度のヴィオラは大型なので骨が折れると言う。」(1924年大正13年1月25日)
tanakakeiichisaburou.hatenablog.com
と書いてある。
規矩士の弟子は圧倒的にピアノの生徒が多いが、数少ないながらヴァイオリンの生徒もいるようである。
そして現在の武蔵高等学校・中学校の事実上の校歌として歌われている「武蔵賛歌」を作曲したのも田中規矩士である。
2022年10月30日、川越の「CAFE & SPACE NANAWATA」でのご紹介動画を貼ります。
この「武蔵賛歌」は1928年(昭和3年)4月15日午前10時、「武蔵高等学校開校式」にて初演。しかしこの初演に規矩士は参加をすることが出来なかった。何故ならこの時「文部省在外研究員」としてドイツのベルリンに旅立っていたから。
武蔵学園のウェブサイトには規矩士が通っていたころの写真が多く掲載されている。規矩士の見ていた景色である。
2期生の浪江氏によると規矩士は
「2年間で必ず音楽を好きにしてみせます」(筆者要約)
という意気込みで指導したそうである。
若き日の規矩士の熱心な指導が見えてくるようです。
なお、この記事は武蔵学園記念室の井上俊一・畑野勇の両氏よりご教示いただきました。両氏に厚く御礼申し上げます。