田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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70.田中規矩士と旧制武蔵高等学校3 武蔵賛歌と田中規矩士

旧制武蔵高等学校学制改革武蔵高等学校中学校と武蔵大学に改組された。旧制武蔵高等学校の伝統を引き継ぐ学校の一つ、武蔵高等学校中学校では、今でも「武蔵賛歌」という歌が事実上の校歌として歌い継がれているそうである。

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この曲を作曲したのは田中規矩士である。


筆者がピアノで弾いてみた。

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経緯はこのようなものであった。1962年(昭和37年)10月。武蔵高等学校同窓会報第4号(1)
書かれたのは作詞をされた長崎太郎氏である。長崎太郎氏とはこのような方である。

100nenshi.musashi.jp

「本校(武蔵高校)の校歌はご承知の通り、はじめ生徒諸君より募集することとなり、幾度か募集しましたが、中々一等という作品がなかったのです。(中略)
昭和2年3月1日でしたが、私は風邪をひいて床についていました。武蔵高校を思っているうちに、あの歌が自然に出来ました。直ちにに筆をとって『武蔵高等学校賛歌』として送りました。(中略)
それから翌昭和3年4月15日に本校の開校式が行われる事となり、その少し前に私は当時の山本教頭から
『校歌がないのでどうしようかと言っていたら、校長がこれを歌ってはどうですか』と提案があった。山本教頭は『作曲は音楽の田中規矩士先生に依頼しようと思う』と言った。(中略)
その後、田中先生は私(長崎氏)に『私(規矩士)はあの歌詞をこのごろいつも懐中にしていて、時々取り出してみては曲を考えている』と言った。
そして昭和3年4月15日午前10時、開校式が催され、一教授として私はその式に参列しました。式次第の最後に初めて賛歌が斉唱せられました。(中略)」(筆者要約)
この1928年(昭和3年)4月5日の開校式には規矩士は出席をすることが出来なかった。この年の2月よりベルリンに留学をしていたからである。筆者はベルリンの空の下から、この曲が演奏された開校式を想っていたと想像している。ベルリンからはせっせと日本に手紙を送っているようなので、この開校式に合わせて旧制武蔵高等学校に手紙を出したのでは?と筆者は妄想をしている。(残念なことにそのような手紙は残っていない)
そして時は経ち1962年(昭和37年)4月29日、創立40周年記念に同窓会総会と感謝行事を行った。その行事で「武蔵賛歌作詞長崎先生・作曲者田中先生への感謝行事」が行われた。長崎氏は遠く高知県からはるばる上京。しかし規矩士は故人となっていたので、代理ですみこが出席。感謝の辞および記念品贈呈の後、長崎氏とすみこが挨拶をした。(1962年(昭和37年)10月。武蔵高等学校同窓会報第4号(1))に記載)


旧制武蔵高等学校から続く武蔵学園は2022年創立100周年とのことである。記念サイトがオープンし、記念式典も行われたようである。規矩士が作曲した「武蔵賛歌」も大事に歌い継がれているとのことである。武蔵学園が未来永劫に発展し、「武蔵賛歌」も歌い継がれることを祈りたいと思う。

武蔵学園講堂。この講堂は1928年(昭和3年)に竣工されたそうです。練馬区のサイトによれば建設は清水建設だそうです。

清水建設といえば、規矩士すみこのステキなおうちの施工会社ですね)

www.city.nerima.tokyo.jp

 

2022年4月。筆者写す

内部

 

(筆者の卒業した大学、音大なんだけど筆者の学生当時ホールなかったんだよね。大教室を代用していました。思い出の333)