田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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69.田中規矩士と旧制武蔵高等学校2 規矩士の授業風景

さて、規矩士がどのような授業をしたのか?これは同窓会報に教え子の投稿があったので紹介をする。
武蔵高等学校同窓会報第21号(昭和54年12月1日発行)より。
書かれたのは2期生の浪江虔氏。
「田中規矩士先生は12、3歳の少年どもの『唱歌の先生』としては全くもったいない先生であった。既にピアニストとして名をなしておられ、またある四重奏団のヴィオラ奏者でもあった。
しかし先生はその名の通り謹厳かつ誠実な方で、私ども相手の音楽教育に情熱を注いでくださったのである。
入学してはじめての音楽の時間に先生は『音楽が好きか嫌いか』について、クラス全員に挙手させた。
唱歌(音楽)が好きなんて男らしくない』という年恰好だから、私は本当は少し好きだったのに、あさましく大勢に順応して『嫌い』の方に手を挙げた。この様子を見て先生は断固としてこう言われた。

『2年間で必ず好きにしてみせます』

毎週一回の授業はこの意気込みで、しかし決して押しつけがましく行われた。だから私にとっては週のうちで最も楽しい時間であった。同感の級友も少なくなかったと思う」(49ページ)

 

『2年間で必ず好きにしてみせます』


このセリフは凄い。大体中学低学年の男子はじっとしていられない生き物なので、音楽よりスポーツを好む人が多いように思う。筆者の見ている限り音楽の時間は大抵「暴れる男子、それに文句を言う女子」という風景だったと思う。中学校の合唱祭で女子が「男子ぃ~真面目にやってよ~」と言うシーンはあるある。実は私も言った。

「ちょっとぉ男子~ふざけないで真面目にやってよ~」(私は合唱祭はピアノ伴奏をしたので、当然クラスでの指導も音楽の先生から任されていました。)
しかし浪江虔氏も書いていたが、この年代の男子は「音楽が好き」というのがまだ照れ臭いのかもしれない。


しかし男子は一度「音楽が好き」というスイッチが入ると、突っ走る。この突っ走りっぷりは女子はかなわない。体力に差があるので、女子は流石に1日10時間は弾けない。男子が本気になった時の気力体力は女子はついて行かれない。
音楽に目覚めた男子が1日10時間以上練習をして、あっという間に上達をするというのはよくある話である。規矩士の弟子、井口基成、豊増昇もスイッチが入ってしまったようで、「一日中ピアノの練習をした」と伝わっている。
規矩士はこの「自分の力でこの『音楽好きスイッチ』を入れて見せよう」と思ったのかもしれない。規矩士の熱心な指導ぶりが目に浮かぶ。そしてその言葉通り、学生生徒からは音楽好きを輩出。後に「音楽部」として学内オーケストラの活動もあった。


浪江虔氏の思い出話の続きを読もう。このようなこともあったらしい。
「2年になってから、私達は次々と外国の国歌を教わった。これは山本教頭の命令によるもの。『本校生徒が将来外国に滞在して、その国の国歌も唱えないのはよくない』というのが論拠。この当時山本教頭の言うことを無視することなど出来るはずはなかったから、『国歌の教育』にかなりの時間をさくということになった。
今思い起こしてみると、田中先生がご自身で選ばれた教材と同じように心をこめて教えてくださったのは、ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)だけだったようである。田中先生はこの『国歌の教育』にけっして熱心でなかったことは実にはっきりした証拠がある。それはこの当時もうなくなっていた、ロシア帝国の国歌と、ドイツ帝国の国歌を教えたのである。それは先生が使われた市販の本がただ単に『古かった』だけなのであるが。(要するに規矩士はヤル気がなかったので、古い本でお茶を濁したと言いたいのか?)」
「田中先生は持ち前の几帳面さで、1年間の教材曲の選定を早々と済ませておられたに違いない。そこへ山本教頭の鶴の一声で各国国家が割り込んでしまった。」(49ページから50ページ)
規矩士は生涯「几帳面な性格であった」と伝わっている。


武蔵高等学校同窓会報24号(昭和57年12月1日発行)より。
同じく2期生の臼井武夫氏は書く。
「音楽の時間。
音楽担当は上野(筆者注。東京音楽学校のこと)のピアノの講師田中規矩士先生で、原則として唱歌を、希望者にはピアノやヴァイオリン等の器楽を、そしてコーラスの指導もされた。少ない授業時間ではあったが、教科書にはコールユーブンゲンを使い、本格的な基礎教育を施された。学期末には筆記試験があって、中の一題に短い歌詞に譜を付ける、つまり作曲まで入っていた」(中略)
コーラスではハイドン天地創造や兵士の合唱その他を練習した。皆原語であった。(日本語訳ではないという意味)私は今でもこのハイドンのオラトリオの三重唱つき合唱曲の始めの方は記憶している。」(46ページ47ページ)

 


浪江氏は「規矩士はヴィオラ奏者でもあった」臼井氏は「ヴァイオリンの指導もした」と書いている。そして武蔵高等学校には1923年10月31日、天長節祝日に天長節挙式という祝賀行事が行われ、君が代を規矩士がヴァイオリンで演奏した」という記録が残っているそうである。(旧制武蔵高等学校記録編年史より)

この時代、まだオーケストラを演奏するには圧倒的に楽器奏者の数が足りなかった。なので東京音楽学校でもピアノ科の学生にもオーケストラ楽器を履修させていたようである。どうやら規矩士はヴァイオリンやヴィオラを履修したようである。つまり規矩士はピアノが専門であったがヴァイオリンやヴィオラも演奏出来たようである。この規矩士の「ヴァイオリンやヴィオラの話」は、妻であるすみこは周りに語っていないかもしれない。「規矩士が弦楽器が弾けた」という話は後世に伝わっていない。推測であるが、昭和になりだんだん弦楽器をきちんと学んだ奏者が育ってきて人員が足りてきたので、規矩士はヴァイオリンやヴィオラを弾くのをやめてしまったのかもしれない。

 

現在の武蔵学園の校舎中庭。2022年4月。筆者写す。