田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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68.田中規矩士と旧制武蔵高等学校1

田中規矩士は東京音楽学校を卒業した後、まず湘南中学校に勤務。そして大正11年の旧制武蔵高等学校開校と同時に「唱歌(音楽)講師」として奉職したことがわかったので、ブログをアップします。

(経歴の方も書き換えます)
なお、この記事は武蔵学園記念室の井上俊一・畑野勇の両氏よりご教示いただきました。両氏に厚く御礼申し上げます。


旧制武蔵高等学校は、日本で2番目に開校した七年制の旧制高等学校である。七年制旧制高等学校とは、旧制中学校と旧制高等学校を一貫校として教育するという目的で作られたようである。つまりイギリスのパブリックスクール、ドイツのギムナジウムなどを範として、大正時代に設立が始まった。
日本における七年制旧制高等学校開校1番目は、1921年(大正10年)の官立の旧制東京高等学校、2番目が1922年(大正11年)の台湾の台湾総督府台湾高等学校と武蔵高等学校である。武蔵高等学校は、初の私立七年制旧制高等学校であった。

ここの記事を訂正します。(2023年9月9日訂正)

七年制旧制高等学校とは、旧制中学校と旧制高等学校を一貫校として教育するという目的で作られたようである。イギリスのパブリックスクールや、ドイツのギムナジウムなどを範として大正時代に設立が始まった。

東京高等学校史』東京高等学校史刊行委員会1970年によると、東京高等学校の1922年(大正11年)4月8日に入学式、同じ1922年(大正11年)4月17日、武蔵高等学校が入学式とあります。つまり東京高等学校武蔵高等学校は同じ年に入学式をしたということであった。

www.musashigakuen.jp

田中規矩士は、以下のサイトに1922年(大正11年)4月1日付けで任命と記述がある。

100nenshi.musashi.jp

規矩士が何故この武蔵高等学校唱歌の講師になったかは現在の所わからない。ただ兄、田中敬一が旧制東京高等学校唱歌の講師だったので、筆者の推測ではあるが、そちらからの縁もあったかもしれない。規矩士が東京音楽学校を卒業したのが1921年(大正10年)。武蔵高等学校の講師になったのは、卒業して2年後のことであった。規矩士25歳。(この年の9月に26歳になります)まだ学校を卒業したばかりの、若き頃であった。
唱歌(音楽)は尋常科1年と2年の授業であった。年齢でいったら13歳14歳ごろ。現在の中学1年、2年である。
このサイトの見出しの1枚目の写真、開校記念集合写真の右から4番目の男性が田中規矩士と思われる。

100nenshi.musashi.jp

現在の武蔵学園。2022年4月筆者写す。緑の多い気持ちの良い校地です。

奥に講堂を臨む。この講堂は規矩士が着任したころはなかったそうである。