田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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82.田中規矩士の弟、田中三郎氏の日記

(2023年3月11日投稿)

田中規矩士の弟、田中三郎氏の日記が三郎氏の長男の遺品から発見されました。これを田中家ご遺族の了承が得られたので公開しました。1923年(大正12年)から1924年大正13年)にかけての日記です。
田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶β版と相互リンクとします。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com


1年半という膨大な量なので、少しづつ投稿していきます。2023年3月11日現在では1924年大正13年)1月中旬まで投稿してあります。
三郎氏は自身のこと以外に、長兄敬一、次兄規矩士のことも多く書いています。そして長兄や次兄が話す旧制東京高等学校、旧制武蔵高等学校東京音楽学校、この当時の音楽の話題も多く書き留めています。

この当時、三郎氏の次兄、田中規矩士と妻、たなかすみこはまだ結婚していません。二人が結婚するのは1930年(昭和5年)の話です。しかしたなかすみこ(旧姓黒澤すみ)と田中規矩士は既に出会っていました。この1923年(大正12年)、たなかすみこは田中規矩士の弟子になるようです。


100年前の東京での市井の暮らし。ネット、テレビ、ラジオ、電話がない世界。今では考えられない時代の感覚があります。バリバリの戦後派。生まれた時には既にテレビがあり、マンガ全盛期以降に子ども時代を過ごし、大人になってデジタル機器と出会った「中の人」には考えられない感覚。「中の人」はテレビばかり見たり、マンガばかり読んでいるとバカになるアホになると言われて育った世代でもあります。


ネットもゲーム機もテレビもラジオもマンガも、そして電話もメールもメッセージアプリもない100年前の日本。情報収集は口コミと新聞です。田中家では本も多く読んでいるようです。口コミは近所、知人、友人から。そのせいかすぐ「他人の家を訪問」という行動がとても多い。いきなり玄関を「ガラガラ」と開けて「こんにちは!○○さんいますか?」です。そして「訪問」という行動でいろいろな情報を集めているように思えました。マンガの「サザエさん」が近いのかもしれません。(サザエさんの家にはテレビも電話もありましたが)


田中家はそんなに広い家ではありません。その家に家族5人から6人が肩を寄せ合って暮らしていました。今と比べて質素な生活ですが、西洋音楽好きで、父と長兄は音楽の教師、次兄は音楽の教師兼ピアニスト。家にはグランドピアノがあり、蓄音機や多くのレコードがありました。日記からは、「音楽と家族愛」に囲まれたおだやかな生活ぶりが見えてきました。


日記の始めはあの「関東大震災」の恐ろしい話からです。横浜にあった田中家は地震あとの火災被害にあって焼け出されてしまいました。淡々と書かれているだけに、怖ろしさが迫ってきます。

 

日記はいつ書かれたのだろう?「中の人」が読んだ感想では、元々書いていた日記をのちに清書したのでは?と推測しています。和紙に万年筆か付けペンか何かで書かれています。清書は割と早い時期ではないか?と推測しています。
三郎氏の日記について新しい知見が得られましたら、お知らせします。まずはご紹介です。


最近では「エゴ・ドキュメントの歴史学」と言って「日記」「手記」といった私的文書から「社会学」、「歴史学」を研究する手法が盛んになりつつあるのだそうです。この三郎氏の日記がそういった研究の一助になれば良いと思います。

田中三郎氏の日記。表紙は別のものであったかもしれません。のちに違う紙を貼って表紙にしたのかもしれません。

中身。旧仮名遣いですがカタカナで楷書で書かれているので、読みやすいです。

中表紙。三郎氏は絵が上手です。