田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

まずは右側サイドバー(スマホタブレットはスクロール)の「はじめに」からお読みください。情報が順次更新されていますので、「更新記録」も読んでいただけますようお願い申し上げます。

41.田中規矩士ものがたり3-3 東京音楽学校教授2 恩師クロイツァーの話 自主リサイタル

東京音楽学校としては規矩士にドイツで習得した最新の「音楽事情」をご披露、そして活用してもらう気満々だったと思う。1931(昭和6)年1月16日から20日まで京都、名古屋へ東京音楽学校主催演奏旅行。自作披露も兼ねて、たくさんのステージをこなすのであった。

そして学外でも日本青年館で行われた日本教育音楽協会主催1931年(昭和6)12月11日音楽大演奏会に出演。

1933(昭和8年)年雑誌『教育音楽』に「ピアノ演奏法について」という連載を持つ。この「ピアノ演奏法」はドイツで学んできたクロイツァーの演奏法を取り入れたものだそうである。

 

 

そして1931(昭和6)年規矩士のベルリンの恩師クロイツァーが初来日。リサイタル以外にいろいろな所でマスタークラスもあったようである。東京音楽学校でもマスタークラスがあり、その講座に規矩士は受講生、すみこは聴講生として参加。(『東京芸術大学百年史』演奏編1269ページ)

ところがクロイツァーの住むドイツでは、1933(昭和8)年ナチス党が政権奪取。ナチス党は「ユダヤ人迫害」を是としていたので、ユダヤ人の公職追放が始まった。クロイツァーはユダヤ人であったので、一夜でベルリン高等音楽院教授の座を追われた。その他いやがらせも多かったそうである。

クロイツァーは思う。

「もうベルリン、もうドイツにはいられない。仕方がない。2年前に暖かく迎え入れ、そして弟子が活躍する日本へ移住しようか?それとも2度ほど演奏旅行に出かけ、好評をもって迎えてくれたアメリカに移住しようか?」

迷いながら1934(昭和9)年2月、再来日。この再来日には規矩士も出迎えにいったようである。この時は6月17日の演奏会まで長期滞在をしたようである。そしてアメリカに向かった。アメリカには翌1935(昭和10)年の春までいたようである。その後ドイツに戻るつもりであったようだが、丁度その時アメリカにいた指揮者の近衛秀麿から「ドイツに戻るのは危険である」と説得されて、また太平洋を渡って来日。3月21日のことであった。この来日がクロイツァーの「日本永住の来日」となったのである。

ドイツでの恩師、クロイツァーが思いがけなく日本に住むことになった。規矩士はまたクロイツァーの元で研鑽を積むことが出来るようになった。そして翌1936(昭和11)年5月11日レオニード・クロイツァー門下生ジョイントリサイタルに出演するのであった。この演奏会には、規矩士の他に笈田光吉、高折宮次、黒川いさ子というベルリンでクロイツァーに師事していたメンバーと一緒の出演であった。

f:id:tanakairoonpu:20211225005234j:plain

f:id:tanakairoonpu:20211225005307j:plain

f:id:tanakairoonpu:20211225005342j:plain

どうやらこのクロイツァーの元での研鑽はその後も続いたようである。1942(昭和17)年6月16日、満を持しての自主リサイタル。プログラムがドイツもの、ロシアもので構成されているので、おそらくクロイツァーのレッスンの成果であろう。

広告。

f:id:tanakairoonpu:20211225005537j:plain



この写真はその時のもの?

f:id:tanakairoonpu:20211225010030j:plain

 

そしてクロイツァーのレッスンには、妻すみこも同行させ、二台ピアノのレッスンも同時に受講していたようである。

いつの写真かわからないが、2台ピアノを弾いている規矩士とすみこ

f:id:tanakairoonpu:20220104031004j:plain

忙しいと思われる「東京音楽学校教授」の他に自己のピアノ研鑽もおろそかにしなかったのである。生涯「真面目」と伝えられている規矩士の面目躍如たる活躍であった。