すみこは本人が語るところによると、活発な元気の良い子供であったらしい。後年エネルギッシュに活動をするすみこから察するに、確かに言葉は悪いが「オテンバムスメ」であったと思う。
オテンバ故に母からは叱られることも多かったようだ。
音楽はいつから始めたのだろう?
すみこの母、きくは音楽好きであった。家には足踏みオルガンやピアノ、そして蓄音機もあったようだ。
きくは家のオルガンでよく「讃美歌」を歌っていたと伝えられている。
すみこの長兄、黒澤敬一も母に似て音楽好き。家の中では音楽に満ち溢れていたと思う。
すみこに音楽の手ほどきをしたのは、母と長兄であったと伝えられている。
母が歌う「讃美歌」のメロディーを足踏みオルガンで探り弾き。すみこは後年「足が届かなくて苦労したのよ」と語っている。この体験が昭和30年代の「足踏み移動式子供用オルガン」の発明に繋がっていく。
長兄黒澤敬一は、1903年(明治36年)生まれ。すみこの6歳年上の兄である。敬一は東京音楽学校ヴァイオリン科教授であった大塚淳にヴィオラを学び、その後チェロを学んだ。東京音楽学校の教授が家に出入りしていたことからも、すみこの家には音楽があふれていたということがわかる。
敬一は1923年(大正12年)20歳の時、イギリスに渡る。英国王立音楽院(RAM)でチェロを学んだ。1924年、英国王立音楽院で新曲視唱のコンテストで、銅賞を受賞した。
1925年から1928年までケンブリッジ大学トリニティカレッジで、数学と心理学、自然科学を学び、1929年に帰国した。
1925年のケンブリッジ大学入学後は、チェリストとしてケンブリッジ大学全体の音楽愛好家を集約し、采配を振るった。
1928年、ケンブリッジ大学の弦楽四重奏団と同大のマドリガルクラブ15名が、スウェーデンのウプサラ大学とストックホルム放送局に招かれた時、4週間のヨーロッパ演奏旅行にチェリストとして同行。16世紀エリザベス朝時代の音楽のプログラムを演奏した。その折ウプサラ大学での演奏会の日、マドリガルグループのテノール歌手が喉を傷めたため、代わりにマドリガルを歌った。それがきっかけとなり、「マドリガルに取りつかれた」そうである。マドリガルとは16世紀イタリアで流行した多声の世俗歌曲の一種。その後イギリスでも盛んになった。
1929年(昭和4年)の帰国後は実家の黒澤商店に入社。その傍ら日本における「西洋音楽受容と古楽受容」に多大な功績があった。
(この稿、黒澤敬一氏と長男である宏氏が主宰した合唱アンサンブル「東京マドリガル会」会員の松田喜久子様に教えていただきました。松田様ありがとうございました。)
すみこは音楽好きな母や兄に囲まれ、音楽の手ほどきをうけ、そして銀座の泰明小学校に通うことになった。
小学生の時、家にあった長兄か母のレコード「ゴドフスキー」の弾くショパンの前奏曲作品28の中の「雨だれ」に感激。「私、ピアニストになりたい!」と思うようになった。(『虹色のひらめき』64ページ。この本にはゴドフスキーがゴッドスキーと間違えて書かれているが、ゴドフスキーのことであろう。)
サイレントだが、ゴドフスキーの演奏姿。
すみこの遺品の中からこのゴドフスキーの弾くショパンのレコードが出てきている。やはり「音楽に目覚めた」記念すべきレコードであったと推測される。
(すみこ旧宅に残されていたSPレコードは管理が行き届かなかったため、ほとんどがひび割れていました。残念です。)
ゴドフスキーは1922年(大正11年)に来日しているそうである。帝国劇場で演奏会があった。この年すみこは13歳。裕福な家庭の育ちなので高額と思われるチケットを買い求めることは出来るが、この演奏会に行ったという話は伝わっていない。
南葵音楽文庫ミニレクチャー 近藤秀樹「左手の巨匠 レオポルド・ゴドフスキー」 ~頼貞が会った音楽家たち (1)
http://www.lib.wakayama-c.ed.jp/nanki/event/minilec/pdf/2018_09_08minilecNo37.pdf
1921年(大正10年)小学校6年の時、母も学んだ横浜共立女学校に転校。この横浜共立女学校は当時は各種学校のような形であったらしく、小学生でも希望をすれば入学出来たようである。(このことに関しては後ほど確認します)
この女学校でイギリス人宣教師チャップマン女史にピアノを習う。一時期寄宿舎にも入っていたらしく、かなりみっちりピアノの指導を受けたようである。そしてチャップマン女史は英語しか出来なかったので、ピアノのレッスンは英語でのレッスンであったとすみこは後に語っている。この共立女学校ですみこは英語もみっちり仕込まれたようである。すみこは英語も生涯得意であった。