田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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7.たなかすみこものがたり2-2 田中規矩士との出会い。豊増昇と井口基成と出会う。

すみこは1923年(大正12年)この年の1月より東京音楽学校教務嘱託(今で言う非常勤講師のことだと思います)になった田中規矩士に師事。1923年(大正12年)のいつ頃から師事したのかはわからない。しかし1923年の間で、関東大震災前であることは確かである。

 

この田中規矩士に師事した理由はわからない。ひょっとして「ピアニストになりたい!」と言っているすみこに黒澤家に出入りしていたと思われる、同じ東京音楽学校大塚淳が、「それなら東京音楽学校の先生に習うといいよ」と紹介をしたのかもしれない。これは推測です。

同じ年、田中規矩士の所でまだ小学生だった豊増昇(1912‐1975)と出会う。すみこが「田中規矩士の所に通い出したら、豊増昇が既にいた」と語っている。豊増昇は後にピアニストとして大成し、東京音楽学校教授、そして戦後ベルリンフィルでも共演する実力派ピアニストとして大活躍をした。

kotobank.jp

すみこと豊増昇はこの時から豊増昇が亡くなるまで、長い年月丁寧な付き合いがあった。

すみこと豊増昇。多分すみこの家?

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豊増昇がこの関東大震災の年に佐賀県から上京をしたようなので、すみこも同じ年に田中規矩士と出会ったと推測できる。(小澤征爾 小澤幹雄著 『ピアノの巨人 豊増昇』より)

1923年(大正12)この年は関東大震災の年である。

横浜に住んでいた田中規矩士は被災。焼け出されてしまった。

『虹色のひらめき』によると蒲田のすみこの家に逃げてきたそうである。

この投稿を訂正します。

現在公開中の田中規矩士の弟、田中三郎氏の日記によれば、横浜の家を焼け出された田中家は、伝手を頼って東京府荏原郡大井町に移住したようである。規矩士も家族とともに同行したようです。蒲田にあった黒澤家に住んだことはないようである。

伝承されていく過程で何か違う情報が紛れ込んだようです。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

しかし10月24日に規矩士が蒲田にあった黒澤家を訪問したことが、弟三郎氏に日記に書いてある。

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

「尊敬する田中先生の身の上を案じていたら、玄関の方で人の気配がして、お庭番の爺やの声やメイドさんの声がした。耳を澄ませて聞いていると田中先生の声です。夢中で玄関に駆け出して行きました。見るとそこには落ちくぼんだ目の、疲れ切ったようすの先生が、足にゲートルを巻いて物静かに立っていたのです。私は気の毒で、『放っておけない、何とかしてあげたい』と心から同情してしまいました」(『虹色のひらめき』89ページより。筆者要約)

弟、三郎氏の日記によれば、横浜の家は罹災。大事なピアノが灰になってしまった。そして移住先の大井町で「なんとかピアノを確保」しようとするが、大震災後の混乱もあったようで「ピアノ確保」に苦労をしているようである。そんな頃に規矩士は黒澤家を訪ねたようだ。罹災、移住、ピアノが手に入らないということで、規矩士はやはり疲れた様子を見せていたのだと思う。

この関東大震災では黒澤商店の工場も被災。しかし家はなんとか無事であったようだ。そして一時期、黒澤村と呼ばれた工場の社宅に田中規矩士は住んでいたようだ。すみこは「黒澤村にいた田中先生の家に入り浸っていた」と伝わっている。

その後、田中規矩士は大井町に転居。

(2023年3月28日訂正)

すみこは豊増昇と一緒に大井町にピアノのレッスンに通った。そんな頃から井口基成も合流。井口基成は戦争中は東京音楽学校教授、戦後桐朋学園音楽部門創立に尽力をした、実力派のピアニストである。

すみこ、豊増昇、井口基成の3人は田中規矩士の元で一緒にグループレッスンを受けることになり、ピアニストを目指して「切磋琢磨」をした仲間となった。レッスン日は土曜日だったそうである。

1965年(昭和40)9月9日。ホテルニューオータニにて行われた「田中規矩士を偲ぶ会」でスピーチをする井口基成。右から2人目はすみこ。

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すみこにとって3歳年下の豊増昇はカワイイ弟分。二人は一緒によく遊んだようで、そんな話も伝わっている。

豊増昇少年はあっという間にすみこより上手になっていったようである。ある時のレッスンはすみこが知らない曲。すみこが突然思いついたように言う。

すみこ「何をやっていらっしゃるの?」

昇「(大真面目で)僕、級長をやっています。」

すみこは何の曲を弾いているのかを聞きたかったのだが、意図が通じなかったようだ。

この話はどういう訳かすみこお気に入りの話で、いつも「可笑しいのよ」と周りにしょっちゅう語っていた。『虹色のひらめき』にも書いてある。実は筆者も聞いたことがある。

その他、レッスンの帰りに蒲田のすみこの家に豊増昇が遊びに来た話も伝わっている。

 

さて、すみこの女学校、共立女学校は関東大震災で壊滅的被害を被り、学校再開の目途が立たなくなってしまった。その頃からすみこは「東京音楽学校入学」を意識し出したようだ。

そこで、女学校卒業の資格が取れる横浜捜真女学校に転校。この学校で後の文化勲章受章者である画家の小倉遊亀と出会う。

すみこが何故東京音楽学校を目指すことにしたのか?本人はいろいろと言っているが、要するに「田中規矩士先生に一目ぼれ」したのだと思う。この話も周りによく語っていた。

「田中先生の所にわざと楽譜を忘れてくるの。そうすると取りに戻らなければならないから、先生のお顔が2度見られるのよ。田中先生は怒ったけど。でもね、私は嬉しかったの」

もちろん『虹色のひらめき』にも書かれている。

ということで、一目ぼれをした田中先生に認めてもらいたくて、必死に練習。そして田中先生を追いかけて女学校4年修了の時に東京音楽学校を受験。頑張ったかいがあって、無事田中先生と同じ「器楽部ピアノ専攻」に合格するのであった。

ちなみに井口基成はその前の年に受験をしたが失敗。次の年、すみこと一緒に合格をして同級生となるのであった。1926年(大正15年)のことであった。

この「目標を定めると万難を排して頑張る」すみこの性格は、後にいろいろな所で発揮されるのであった。