田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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24.田中規矩士経歴

年齢はその年のお誕生日が来たらの年齢です。田中規矩士は9月生まれですが、9月以前でもお誕生日以降の年齢を記しました。

 

1897年(明治30年)9月9日神奈川県横浜市生まれ。菊の節句に生まれたので、規矩士と名付けられたそうです。

1915年(大正4年) 神奈川県立第一中学校卒業。(現在の神奈川県立希望ヶ丘高校)18歳

1916年(大正5年)3月 東京音楽学校予科卒業。19歳

1919年(大正8年)3月 東京音楽学校本科器楽部卒業。22歳

1921年(大正10年)3月東京音楽学校研究科器楽部終了。24歳

1921年(大正10年)4月22日付けで神奈川県立湘南中学校教授嘱託拝命。(2022年7月26日加筆訂正)

1921年(大正10年)雑誌「音楽」11月号に洋琴独奏曲 情調詩 発表

1922年(大正11年)4月1日付けで旧制武蔵高等学校講師になる。教科は唱歌(音楽)。25歳(2022年7月26日加筆訂正)

1923年(大正12年) 1月8日付け東京音楽学校教務嘱託。教務嘱託とは非常勤講師のことのようです。26歳。

1923年(大正12年)1月31日付けで神奈川県立湘南中学校を退職。(2022年7月26日加筆訂正)

1923年(大正12年)黒澤すみ、田中規矩士の門下生になる?(後の妻、たなかすみこです)

1923年(大正12年)9月。関東大震災で被災。一時期黒澤すみの実家の工場社宅に住むと伝えられている。

(規矩士の弟の日記によれば、このようなことはなかったと思われる。2023年3月28日訂正)

13.大正12年9月5日から7日まで 家族全員が東京府荏原郡大井町庚塚に移住。 - 田中三郎の日記

その後、府下大井町鎧塚4879番地に住む

1924年大正13年)アルス音楽大講座第五巻実技編Ⅰ(アルス社)ピアノの実技の中の「チェルニー30番」を執筆。

1928年(昭和3年) 2月9日付け東京音楽学校助教授。2月10日ピアノ研究のため満2年ドイツへ在留を命ぜられる。31歳

1928年(昭和3年) 3月よりベルリン高等音楽院レオニード・クロイツァー教授に師事。

1930年(昭和5年) 音楽視察として、フランス、イタリア、スイスに滞在。33歳

1930年(昭和5年) 5月31日イギリス、アメリカを経由して帰国。

1930年(昭和5年) 6月25日付け東京音楽学校教授。

1930年(昭和5年) 7月31日付け旧制武蔵高等学校講師退職。1928年(昭和3年)の在外研究でベルリンに滞在していたので、おそらく1928年(昭和3年)からは授業は担当していないと思われる。籍だけ残していたと思われる。(2022年7月26日加筆)

1930年(昭和5年) 第四臨時教員養成所ピアノ科教員になる(1931年度まで)

1930年(昭和5年)10月10日 弟子であった黒澤すみと結婚式を挙げる。(たなかすみこと結婚式)34歳

1933年(昭和8年)雑誌「教育音楽」に「ピアノ演奏法について」という連載を持つ。

1934年(昭和9年) 東京都世田谷区東玉川に自宅を建設。37歳

1935年(昭和10年)乙骨三郎訳,田中規矩士選曲『バイエルピアノ教則本』をシンキャウ社より出版。38歳

1941年(昭和16年)11月11日付け勲六等瑞宝章授与。44歳

1945年(昭和20年)4月30日東京音楽学校教授退職。講師となる。48歳

1945年(昭和20年)年7月25日付け勲五等瑞宝章を授与。48歳(2022年5月14日加筆訂正)

1946年(昭和21年)9月30日東京音楽学校退職。49歳

1946年(昭和24年)6月1日 「文部事務官教官に任命する」と官報昭和25年3月1日第6939号「叙任及び辞令」らんに記載。後年伝えられている東京女子高等師範学校講師のことではないかと思われる。(事務官と教官を間違えたので訂正します。2024年3月19日)

1949年(昭和24年)より武蔵野音楽大学にて教鞭を取る。身分は不明。(講師ではないかと思われる)51歳

1951年(昭和26年)官報6月21日第7333号 「お茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授に補する」と記載がある。53歳

1951年(昭和26年)よりフェリス女学院短期大学音楽科にて教鞭を取る。身分は講師と思われる。

1951年(昭和26年)より東京北ロータリークラブに入会。

1952年(昭和27年)3月 お茶の水女子大学退職。(旧宅に残されていた資料より。お茶の水女子大学には確認が取れていません)

1952年(昭和27年)4月 武蔵野音楽大学教授となる。(旧宅に残されていた資料より。武蔵野音楽大学には確認が取れていません)

1955年(昭和30年)ごろ、ロータリークラブ歌「四つのテストの歌 ことにあたりて」を作曲。

1955年(昭和30年)8月7日没。死因は胃がんだそうです。享年57歳。

 

2023年9月現在わかっている著名な教え子。(敬称略)

黒澤すみ(たなかすみこ。東京音楽学校受験時代に習った。のちに田中規矩士夫人となった。たなかすみこ名義で音楽教育家として数多くの著作がある)

井口基成(ピアニスト・音楽教育家。田中規矩士に東京音楽学校受験時代に習った。戦前は東京音楽学校教授。戦後は桐朋学園音楽部門を創立)

井口秋子(ピアニスト・音楽教育家。井口基成の元妻。田中規矩士に東京音楽学校受験時代に習った?東京藝術大学教授。1956(昭和31)年9月28日に行われた「故田中規矩士先生記念演奏会」に出演している。)2023年9月10日追記

豊増昇(ピアニスト。戦前は東京音楽学校教授。戦後はピアニストとして世界的に活躍。芸術院会員。田中規矩士に東京音楽学校受験時代に習った。)

永井進(ピアニスト。東京音楽学校教授、東京藝術大学教授。戦後ピアノ界を牽引した東京藝術大学教授の田村宏の師として有名。ピアニスト深沢(旧姓大野)亮子の母が書いた本「ピアノの日記」で深沢亮子の師としても登場している。東京音楽学校本科1年と2年の時に師事)2022年7月12日追記

三宅洋一郎(ピアニスト。フェリス女学院大学教授。東京音楽学校で師事したらしいが、いつからいつまで師事したかは不明)

山田一雄(指揮者。東京音楽学校で師事)

中田喜直(作曲家。フェリス女学院短期大学教授。東京音楽学校予科と本科1年まで師事。主な曲は『夏の思い出』など)

葛原守東京音楽学校予科で師事。中田喜直と同期。昭和20年に戦病死。戦没学生として東京藝術大学アーカイブに記録が残る)

東風平恵位東京音楽学校甲種師範科卒。沖縄県出身。卒業後沖縄県に帰り、女子師範学校教員になり、ひめゆり部隊を率いて戦死。畑中良輔の著作に出ている。)

水谷達夫東京藝術大学教授。東京音楽学校時代に師事)2022年5月8日訂正

大島正泰桐朋学園大学教授。東京音楽学校時代に師事)2022年5月8日訂正

平井康三郎(作曲家。東京音楽学校時代に副科ピアノの指導を受けた。ヴァイオリンの試験の伴奏を弾いていただいたと伝わる。)

上浪明子声楽家昭和音楽大学教授。東京音楽学校時代に副科ピアノの指導を受けたと伝わる。)

藤原高男香川大学教育学部教授。東京音楽学校甲種師範科時代に指導を受けた)

片桐誠一北海道教育大学教授。東京音楽学校甲種師範科時代に指導を受けた)

今岡静子愛知教育大学教授。東京音楽学校甲種師範科時代に指導を受けた)

奥田操武蔵野音楽大学教授。田中規矩士の武蔵野音楽大学時代に師事)

深海小夜子国立音楽大学教授。子供時代に田中規矩士に師事していたと伝わる)

 

木村信之東京学芸大学教授。東京音楽学校時代に一時師事したと伝わるが詳細は不明)

長岡敏夫島根大学教授。東京音楽学校時代に一時師事していたと伝わるが詳細は不明)

 

全国いろおんぷ協和会内で、楊秀梅さんが東京音楽学校時代、藤元薫子さんが横浜国立大学受験時代、小林佐紀子(こばやしさき・川島左紀)さん、江木元子さん、所桂子さん、並木久美子さんが武蔵野音楽大学時代、三田陽子さんがフェリス女学院時代の田中規矩士の門下生でした。

規矩士のベルリン時代と伝わる写真。

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