田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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3.たなかすみこ経歴2

(続き)

すみこは音楽早教育の研究に没頭。「どうしたら幼児に楽しくピアノのレッスンが出来るか」ということを考えた。その研究の成果がこのあと発表されていく。

1938年(昭和13年)この「幼児が楽しくピアノレッスンが出来るか」という研究の成果、「げんこ弾き」を発表。

げんこ弾きとはこのようなものである。

 

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著書として『新しい考案』自費出版。すみこの初めての著作である。

 

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印刷には当時田中規矩士のマネージャーであったと伝えられている中谷孝男氏が協力したようだ。

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中谷孝男氏は日本における最初期の調律師。YMO細野晴臣氏の祖父とのことである。

(この稿梅岡楽器サービス梅岡俊彦様より教えていただきました。ありがとうございました。)

この当時音楽教育の現場では「絶対音感」が流行。すみこもこの「絶対音感習得方法」の研究をした。

 

それと同時に、卒業以来夫、田中規矩士と組んで2台ピアノの演奏も行う。ドイツでの規矩士の先生であったレオニード・クロイツァーのレッスンを受けることとなった。

レオニード・クロイツァー(1884‐1953)はロシア出身のピアニスト兼教育家。ベルリン国立高等音楽院ピアノ科主任教授であった。高折宮次、田中規矩士、笈田光吉、井口秋子、大月投網子フジコ・ヘミング母)などたくさんの日本人がベルリンでクロイツァーの指導を受けていた。そして指揮者近衛秀麿とも親しかった。クロイツァーはユダヤ人だったので、ナチス政権の公職追放で一夜にしてベルリン国立高等音楽院ピアノ科主任教授の地位を追われ、結局日本に逃げた。1935(昭和10)年のことであった。

それ以来日本でたくさんのピアニストたちの指導を行った。その中に規矩士とすみこの2台ピアノユニットもいたのである。クロイツァーは日本における音楽界の大恩人の一人でもある。

このクロイツァーのレッスンはすみこに大きな影響を与えたようだ。最晩年まで「クロイツァー先生、クロイツァー先生」と言い続けたのであった。著書にも「クロイツァー」から習ったテクニックという文言が多く書かれている。

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その他、同級生の片山(旧姓菊池)愛子、そして後に東京藝術大学教授となったソプラノ歌手浅野千鶴子のピアノ伴奏もしたようである。

 

たなかすみこの代名詞、「いろおんぷ」は1941年(昭和16年)ごろ、そのころ「すみれ会」に集っていた生徒たちとの交流で生まれたようである。このころの田中規矩士の東京音楽学校における門下生たちが、すみこの「いろおんぷ」「げんこ弾き」「おはしびき」「絶対音感習得」の実験や検証に参加していることが伝えられている。

 

1949年(昭和24年)天元社から『ピアノ指使いの金條・おさなごのげんこ弾き』出版。この本はいろおんぷではない。

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すみこ最初の出版『新しい考案』は時節柄軍国歌謡、戦争賛美の曲が含まれていて、戦後には相応しくない。そこで軍国歌謡、戦争賛美の曲を抜いて、改めて「げんこ弾き」を発表。

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1953年(昭和28年)3月、いろおんぷ発表。しかし出版を引き受けてくれる出版社が見つからず、まずはガリ版で発表した。

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その後10月に『いろおんぷ1集』自費出版好評を持って迎えられた。

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1954年(昭和29年)4月。日本楽器(後のヤマハ)銀座店地下で、音楽実験教室開室。「たなかすみこいろおんぷ」を教材とした「いろおんぷ科」が開設された。このいろおんぷ科は1959年(昭和34)ごろまで続いたようだ。ここでも好評を持って迎えられた。

1954年(昭和29年)いろおんぷの続編、『いろおんぷ2集』を自費出版

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1955年(昭和30年)やっと引き受けてくれる出版社が現れた。3月『やさしいおんぷのかきかたならいかた』を出版。

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この新興楽譜出版社はすみこの著作のほとんどを出版。長いお付き合いとなった。

1955年(昭和30年)8月。夫、田中規矩士逝去。享年57歳

1955年(昭和30年)10月13日、生活を豊かにする第五回「女性の発明展」(主催:社団法人発明協会読売新聞社。後援:特許庁・婦人経済連盟)において自身の発明品「いろおんぷとその教習具」に対して特賞「婦人経済連盟賞」を受賞。

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1956年(昭和31年)『いろおんぷばいえる上巻』新興楽譜出版社より出版。

1957年(昭和32年)6月10日、『いろおんぷ1集』が晴れて音楽之友社より出版された。この本は現在でも出版が続いている。

1957年(昭和32年)10月10日、「すみれ会」で学び、すみこのアシスタントとなったすみこの門下生たち、夫田中規矩士の元門下生たち、幼馴染みの豊増昇、1953年(昭和28年)の「いろおんぷ発表」以来、いろおんぷで指導を始めたピアノ教師たちが、すみこを会長に「全国いろおんぷ協和会」を発足させた。この会は現在は2008年「たなかすみこ追悼の会」開催後、解散している。

1959年(昭和34年)2月25日、『いろおんぷ2集』こちらも音楽之友社より出版された。

1959年(昭和34年)『いろおんぷばいえる下巻』『おはしびき』新興楽譜出版社より出版。

「おはしびき」とはこのようなものである。

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1961年(昭和36年)よりあの幼馴染み豊増昇とともに『上手になれるシリーズ』出版。『ハノン』『ブルグミュラー』『ツェルニー』を新興楽譜出版社より出版

1962年(昭和37)『TANAKA20番』音楽之友社より出版。

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すみこの出版事業、音楽教育経営事業は順調に発展していった。

 

これらの功績で1966年(昭和41年)都知事賞受賞、1969年(昭和44年)藍綬褒章叙勲。そして発明協会と発明の寄与によって1983年(昭和58年)瑞宝章叙勲という名誉をいただくのであった。

 

その後も出版と発明は続く。すみこは丈夫で80歳代になってもパワフルに動いていた。1989年(多分)終活を考えたすみこは思い出の規矩士のピアノを新装なって上野公園に移築された旧東京音楽学校奏楽堂に寄贈。現在は楽屋にあるそうです。

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2000年(平成12年)91歳で引退。1934年(昭和9年)に建てた思い出深いあの家の、思い入れがたっぷりあるあのレッスン室兼大広間で、ゆっくり余生を送った。

2007年(平成19年)11月24日没。享年98歳であった。

2008年(平成20年)11月。早稲田奉仕園スコットホールにて「たなかすみこ先生追悼の会」を「全国いろおんぷ協和会葬」として行う。

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この会の終了で1957年(昭和32年)に発足した「全国いろおんぷ協和会」は解散した。