(2023年5月9日投稿)
田中規矩士の兄、田中敬一の現在わかっていることを投稿します。
田中敬一
1890年(明治23年)8月7日横浜生まれ。
1908年(明治41年)神奈川県立第一中学校卒業。
1915年(大正4年)鹿児島県立第一鹿児島中学校教諭に任ぜられる。
1926年(大正15年)9月没。享年満36歳。
著作
1925年(大正14年)作曲の入門
この『和声学教授書』は日本人による和声学の教科書としては3番目に書かれたそうである。
https://core.ac.uk/download/pdf/70318369.pdf
この論文によれば1番目は福井直秋(のちに武蔵野音楽大学を創立する教育者)の1908年(明治41年)、2番目が作曲家として有名な山田耕筰の1918年(大正7年)、そして3番目はこの田中敬一のものである。
この『和声学教授書』は、東京音楽学校で発行されてた雑誌「音楽」に掲載した原稿を元に書いたそうである。この雑誌「音楽」には蕾(違うかもしれない)と如蝸子というペンネームを使って書いた。そしてこの本はリヒタ ー 、ヤダースゾーンといった海外の和声学の著作を綿密に比較検討し、研究したと緒言にある。
弟、田中三郎の日記には「9月1日の地震のあとの火災で、和声学の原書が灰になってしまった」というような記述がある。おそらくこの本を書くために海外から取り寄せた和声学の本を多く所有していたと思われる。
そしてこの『和声学教授書』の序文は湯原元一氏。湯原氏は1907年(明治40年)から東京音楽学校校長、1917年(大正6年)東京女子高等師範学校校長を歴任して1921年(大正10年)東京高等学校校長になる。ちょうど田中敬一が東京音楽学校に在学中の校長であり、卒業後も何らかの繋がりがあったので、『和声学教授書』の序文を書いていただけたかと推測する。そしてその繋がりが敬一の東京高等学校着任につながると思う。東京高等学校は官立の七年制高等学校として1922年(大正11年)に入学式を挙行した。
『和声学教授書』も『作曲の入門』も現在国会図書館デジタルコレクションとして、国会図書館に登録があれば自宅パソコンから見ることが出来ます。
『和声学教授書』
https://dl.ndl.go.jp/pid/942766
『作曲の入門』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1017897
東京高等学校が開校した同じ年、同じ七年制高等学校の武蔵高等学校も開校。武蔵高等学校の唱歌の講師は、弟田中規矩士。つまり同じ年に開校した七年制高等学校の、東京高等学校と武蔵高等学校の唱歌の講師は田中敬一、規矩士兄弟なのである。
文部省職員録大正12年11月調べ
https://dl.ndl.go.jp/pid/908817/1/198
https://dl.ndl.go.jp/pid/940513/1/27
https://dl.ndl.go.jp/pid/940514/1/33
東京高等学校一覧 第3(大正15年8月31日発行)
https://dl.ndl.go.jp/pid/940515/1/33
武蔵学園の年表 旧制武蔵高等学校の時代
このウェブサイトの見出しの1枚目の写真、開校記念集合写真の右から4番目の男性が田中規矩士と思われる。