田中敬一は1922年(大正11年)、東京高等学校の開校時に唱歌の講師として着任。尋常科1年と2年の唱歌を担当することとなった。
この唱歌の授業のことが『東京高等学校史』東京高等学校史刊行委員会1970年に書かれている。
「なんといっても田中敬一先生がよかった。将来の紳士の条件として情操教育の必要を認めて田中さんあたりを引っ張ってきた湯原校長も偉い。」293ページ
この記述には敬一を採用したのは湯原校長であると書いてある。
「田中先生の作曲は数々りっぱなものがあるが、教育のやり方も豊かでおおらかだった。よく課業をやめてレコード名曲鑑賞をやったが、腕白どもがカールソーのテナーをゲラゲラ笑っても怒り顔一つなさらなかった。」293ページ筆者要約
弟、田中三郎の日記にも「十字屋で蓄音機を買った。これは東高で使うのである」という記述がある。
音楽部の創始時代。
「ハーモニカ同好会の誕生。大正12年の秋ごろ、校舎が中野に移ったころに一回出淵の宅にイガグリ坊主どもが集まってハーモニカの練習が始まった。記憶するメンバーは出淵、朝比奈、篠島、山本忠、小川喜夫、大橋、森岡、吉居、峰島、志村(伊藤)など15名くらい。出淵宅でハーモニカバンド結成。ベートーヴェンの第五をハーモニカでやろうということになり、出淵がスコアから第一楽章をアレンジして大学ノートに略譜の数字記号で翻訳をした。校内演奏でカルテット、アンダンテ・カンタービレなどを吹いた。」(291ページ 筆者要約)
この「音楽部の創始時代」に、大阪フィルハーモニー管弦楽団創立者でもある、指揮者朝比奈隆がいたことが書かれている。
この記事では朝比奈隆は東京高等学校時代はスポーツに明け暮れたとあるが、スポーツもやったが、音楽部にもいたようである。
「大正14年、一回生が高等科に進み、いつまでもハーモニカでもあるまいということで、本格的器楽をやろうということになった。バイオリンは朝比奈、西沢、道家、ヴィオラが小川、峯島、セロを出淵。(292ページ)
バイオリンははじめ田中敬一先生の弟さんに習ったが、のちに橋本(国彦?)に習った。(202ページ 筆者要約)
『オーケストラ、それは我なり』中丸美繪著中央公論新社2012年によると、朝比奈隆は東京生まれ。彼は1922年(大正11年)、東京高等学校尋常科2年の編入試験に合格。『東京高等学校史』によると、第一回入学試験は尋常科1年と2年の募集であったと書いてあり、朝比奈隆は1922年(大正11年)より東京高等学校の生徒となったということである。
唱歌の授業は尋常科1年と2年で受ける。この当時の唱歌の講師は田中敬一。つまり朝比奈隆は尋常科2年の時に敬一の授業を受けていたということになる。
朝比奈隆がいつ音楽に目覚めたかは『オーケストラ、それは我なり』に、小学校時代に近所の小島家という家で蓄音機のレコード鑑賞から、と書かれている。そしてハーモニカも得意であったようだ。そして関東大震災で焼け出された親戚がヴァイオリンを持っていて、その音色に感動したという話も書かれている。この小島家の息子と一緒に近所にヴァイオリンを習いに行ったことも書いてある。
そんなこんなでもともと音楽に興味のあった朝比奈隆は、尋常科2年の時の田中敬一先生の音楽の授業は楽しかったのかもしれない。関東大震災のあった1923年(大正13年)に尋常科3年であった朝比奈隆は、敬一の授業はなかったが、罹災してしまった「田中敬一先生」に見舞い状を出したことが、弟、三郎氏の日記に記載がある。(三郎氏の日記には「手紙を下さりし人」として朝比奈隆の名前がある)
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田中先生は朝比奈隆にとって何か親しい先生だったのかもしれない。
『東京高等学校史』に残る音楽部の歴史に「ハーモニカバンド」が出来たのは、1923年(大正13年)の関東大震災のあと、校舎が中野に移ってから。このメンバーに朝比奈隆がいたと書いてあります。
(2023年6月11日追記)三郎氏の日記(5月2日)にハーモニカバンドの発表会があったという記載があります。この日は敬一は東京高等学校に出校していたようで、敬一も「唱歌の先生」としてアドバイスをしたことがあったかもしれません。
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そして1924年(大正14年)、いよいよ本格的器楽をやろう!と決めて仲間でクァルテットを組んだ。そしてヴァイオリンを田中敬一さんの弟に習ったと書いてある。この弟とは?
おそらく田中規矩士のことだと思う。田中規矩士はヴァイオリンとヴィオラを弾けたようです。実際勤務先の武蔵高等学校では「ヴァイオリンを教えた」という伝承がある。「音楽部の歴史」には、のちに橋本(国彦)氏に習ったと書いてあるが、田中規矩士が東京音楽学校の教員だったので、そこからの紹介で朝比奈隆らのクァルテットは橋本国彦の指導を仰ぐようになったと思う。
田中規矩士の妻、たなかすみこは「橋本国彦は田中規矩士の弟子だった」と48年間アシスタント先生だったにしきさゆりに語ったことがあるそうです。(にしきさゆりがそう言っています)まだ確認は取れていません。