(2023年5月9日投稿)
この本も現在国会図書館デジタルコレクションとして、国会図書館に登録があれば自宅パソコンから見ることが出来ます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1173920/1/1
この本に、田中敬一の記述がありました。(現代音楽総覧洋楽の部47ページから48ページ)
それによると、田中敬一の父、田中敬義は「音楽教育を組織的に創始するに興って功のあった我が楽界の恩人」とあります。
敬一は「音楽教育家として理論方面における造詣の深さは楽界に有数なものであり、殊に和声学においては随一というも過言ではない。」とあります。
同じページに弟、田中規矩士のこともあり、そちらに父、敬義のことについて「我が楽壇の恩人」と書いてあります。
弟、三郎氏の日記には、「父は学校から帰るといつもヴァイオリンを弾いたり、オルガンを練習したのだ。」「父はまたピアノも弾いた。このピアノは西川楽器製造所、最初の作品にかかるもの」という記述があります。
【55.大正13年1月26日3 田中家の歴史3 田中家音楽事始め1】
tanakakeiichisaburou.hatenablog.com
そして父、敬義はよく東京音楽学校の演奏会に出かけていて、いろいろな関係者に挨拶をしたりしているようです。そして小山作之助の還暦祝いを贈ったり、祝賀演奏会に出かけています。三郎氏の日記には父、敬義と横浜の西川楽器とのかかわりも書かれています。
これらのことから察するに、横浜で小学校教員と伝わる父、田中敬義氏が西洋音楽好き。小学校で「唱歌」も教えたことがあったかもしれません。のちの妻、たなかすみこは48年来のアシスタント先生、にしきさゆりに「規矩士先生のお父様は音楽の先生だったのよ」と語っています。
長男敬一と次男規矩士は父の影響で「音楽の道」を志し、そして1922年(大正11年)、そろって七年制高等学校の唱歌の講師となったのでしょう。その後敬一は亡くなりますが、規矩士は官費留学を果たして、東京音楽学校教授となり、ピアニストとしても活躍しました。
この時代、「男子が音楽の道を志す」というのはあまり誉められることではなかったようです。「反対を押し切って」という話が多い。その中で兄弟で「音楽の道」というのは筆者にとって異質と感じていましたが、父に理解があったということがわかりました。理解があったというより、「息子たちが西洋音楽の道で立身出世を図る」というのが望みだったかもしれません。教育者でもあった田中敬義は「西洋音楽の将来性」に気が付いていたのかもしれません。
なお、この『現代音楽大観』には敬一が「大正15年2月に助教授になった」と書いてありますが、確認が取れていません。