(2023年5月9日投稿)
田中敬一の作曲
田中敬一は小山作之助氏と親しかったようである。弟、三郎氏の日記には、小山家に毎日のように出かけ、入り浸っていた様子がある。
そして三郎氏の日記によると、「日本教育音楽協会」の理事(おそらく)などの役職にもついていたようである。つまり唱歌の教材の先陣を切っていたことがこのことからもわかる。
田中敬一が残した曲でわかっているものは少ない。
著書『作曲の入門』に残るいくつかの曲がある。これを中の人がピアノで弾いてみた。
1910年(明治43年)1月から1940年(昭和15年)1月まで、東京音楽学校学友会より刊行されていた『音楽』という雑誌に敬一が作曲したものが掲載されているのだそうです。この『音楽』の目次が『東京芸術大学百年史』にあります。
第10巻第5号 大正8年5月号(929ページ)
小学唱歌『雲』による変奏曲
第13巻第5号 大正11年5月号(942ページ)
奏鳴曲第一、第二章
どのような楽譜なのか、そしてどのような曲なのかは不明。
そして『東京高等学校史』にいくつかの曲の作曲があるが、残念なことに楽譜が記載されていない。
そして448ページに復興の歌というものがあります。
これは野村八良作詞、田中敬一作曲とあります。編者注に(大正12年の関東大震災のあと、野村八良先生が作詞、田中敬一先生が作曲したものを当時の在校生が歌わされた懐かしい曲)とあります。
どんな曲だかはわかりませんが、一回生や二回生あたりはとても懐かしい曲なのかもしれません。
YouTube上に《水泳部の歌》があった。
有名な《夕焼け小焼け》とともに作詞されたものに《ほうほう蛍》という曲があるそうである。この《ほうほう蛍》は田中敬一が曲を付けたとのことである。
田中家旧宅に《森乃月》という曲の楽譜が残されていた。中の人が少しアレンジをしたが、弾いてみた。
この曲の楽譜には、Kikushi Tanakaとサインが入っている。楽譜に書き起こしたのは規矩士かもしれない。
田中敬一写真
1925年(大正14年)10月
田中敬一のこと 参考史料
『オーケストラ、それは我なり』中丸美繪著中央公論新社 2012年
『現代音楽大観』 東京日日通信社 編 1927年(昭和2年)
田中三郎の日記
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