田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

まずは右側サイドバー(スマホタブレットはスクロール)の「はじめに」からお読みください。情報が順次更新されていますので、「更新記録」も読んでいただけますようお願い申し上げます。

9.たなかすみこものがたり3-2 「田中先生」のベルリン便り

「田中先生」は非常に筆まめであったようだ。この「婚約期間中」に東京に残るすみこにせっせと手紙を書き送ったようである。しかし当時はまだ「男女七歳にして席を同じうせず」の時代。しかも男女交際にウルサイ東京音楽学校である。宛先はすみこ単独宛てではなく、姉のゆき(雪子)と連名だったり、母のきく(御母上様とある)と連名だったり。どちらにしても婚約したとはいえ、まだ学生でもあり「お嫁入り前」のすみこの事を考えるとやはり単独の宛名は何かのトラブルがあると少々困ることになるのかもしれない用心であろう。

しかもラブレターではなく、ひたすら「近況報告」である。この手紙がすみこの旧宅に数枚残っていた。いくつか紹介をしようと思う。

 

 

今から90年前の、しかも筆記体で書かれているので、読み下しが困難です。筆者はこういう字には慣れていないので、読み下せない部分が多い。勘違い、間違いだらけですみません。

このハガキは宛名が姉、ゆき(雪子)と連名となっています。

f:id:tanakairoonpu:20211205025117j:plain

f:id:tanakairoonpu:20211205025335j:plain

「1の下の〇は、只今の下宿です。2とあるのは、日本人が良く行く『ビクトリアカフェー』といってあまりよくないところです。先生のお宅はこのプラッツ(広場)のすぐ近くです。私の下宿から10分もあると行けます。シェーネベルクは一番日本人が多いことで知られています。

このカフェーの音楽はよく(ここから読み下せない。外に聴こえてくると言いたいのか?)先日もお話したのは、このカフェーのことです。只今は気候が一番よろしいので、外からでもどこからでもよく(ここも読み下せない)が出来ます。今日はヴェルディリゴレットをやっていました。例によって垣根の外からの(読み下せない)はなかなか多勢でした。いずれも自分の知っているところはみんなで合唱しましたから、愉快でした。

ベルリン日本大使館 K.T

裏の絵葉書部分。下宿の所に〇が書いてある。

f:id:tanakairoonpu:20211205025644j:plain

ベルリンのシェーネベルグ地区。ヴィクトリアルイーゼ広場。Googleストリートビューで見る限り、現在は2番の建物はないようだ。

田中先生の手紙はすべてシャルロッテンブルク局の消印が押印されている。ハガキによるとシェーネベルクに住居があったようである。どちらも旧西ベルリンである。

f:id:tanakairoonpu:20211205030356j:plain

 

このハガキは宛名が御母上様と連名になっている。

f:id:tanakairoonpu:20211205030557j:plain

f:id:tanakairoonpu:20211205030752j:plain

シベリア(?)は、この23日から一週(?)回になります。やっと以前に戻りました。ベルリンの邦人は皆、喜んでいます。これからこれから2月までどうぞ変動の無きようにに願っています。

今夜は日、独対アイスホッケーという競技がありました。例により(?)大塚先生の活動はすばらしいものでした。競技はドイツとはとても問題になりませんが、それでもよくあれだけに戦ったと、ドイツ人を始め、一同感心しています。競技は2日間でしたが、満足でした。やはり日本人は体力がまだまだ足りないと思います。ドイツ人も随分日本側に同情してくれた事は、本当に涙ぐましく思いました。

14対3の勝負では仕方がありませんが、ツエ号の日本訪問の事もあり、ドイツ側がいくら勝ってもあまり褒めなかったのは、どんなに嬉しかったでしょう。(読み下せない)日本が勝つと大騒ぎをして拍手をしてくれたことは、我々日本人として(とてもその気持ちに)感謝せねばなりませんでした。よく日本を知っているドイツ人は、皆、我々ともに気の毒だという顔で、一人もやじる事はありませんでした。1月16日KT

 

「田中先生」の手紙は、シベリア鉄道経由であったようだ。そのシベリア鉄道が当てにならなくて、遅配があったようだ。

大塚先生は兄、敬一のヴィオラの先生大塚淳のことであろう。この当時「田中先生」と一緒にベルリンに留学していた。ごく自然に「大塚先生」と手紙に書いていることから察するに、大塚淳は黒澤家と家族ぐるみのお付き合いがあったと思われる。

ツエ号は飛行船ツェッペリン号の事と思われる。1929年(昭和4)8月に日本に立ち寄ったようだ。

www.jacar.go.jp

裏はティーガルテンワーグナーのモニュメント。

f:id:tanakairoonpu:20211205031251j:plain

 

現在もこの像はあるようだ。理由はわからないが屋根がついたようだ。

www.tripadvisor.jp

f:id:tanakairoonpu:20211205032152j:plain

今夜はクロイツァー先生との送別会を8時から(?)東洋館でいたします。ご出席ございます人々は、大塚先生を始めライフ氏、ライフ嬢、それに大月嬢までがご一緒ですからさぞ賑やかでしょう。クロイツァー先生は奥様ご同伴でお出で下さいます。二年の(読み下せない)終了しました。まだまだたくさんやりたいのですが、期限では仕方がありません。ベルリンは未だ(読み下せない)喜んでいます。去年とは二十(?)からの違いですから、驚きます。朝夕は(?)延びました。何だか初春のような気がします。ベルリンを去る時は是非ともポツダム、グルーネヴァルトに今一度行きたいのです。2年の昔、ここで松風を聞くことをどんなに喜んだでしょう。今までもその頃が懐かしくております。日本も良いのですが、ベルリンの郊外の、水のないのが多少物足りなくても、ここに住んでみるとなかなか良いものです。多くの人は割合に夜のベルリンを歓迎しますが、私は反対です。ベルリンの郊外ほど印象はありません。大塚先生とグルーネヴァルト、ポツダムへ行った時はやっぱり一番懐かしいものでした。巡査に叱られたり、ポツダムからベルリンまで自動車を走らせたりしたるを考えると、皆、夢のようです。いよいよこれも近いうちに終わりとなりますので、急に残り惜しくなります。(読み下せない)再びベルリンを訪問したくてたまりません。苦しい事が多かっただけ印象も(読み下せない)どうかそのような日を再び来る事を祈っています。

 

1月26日(日)

 

この手紙はベルリンを去る1930年1月に書かれた。ベルリンでの送別会の模様を書き送ったものと思われる。「田中先生」はベルリンでベルリン高等音楽院レオニード・クロイツァー教授に師事していた。なのでクロイツァー教授、そしてその妻が送別会に参加してくれたと報告している。

クロイツァー教授の妻は『クロイツァーの肖像』荻野由喜子著 ヤマハミュージックメディア(2016)によると、この時代は「ロシアの共産革命によって肉親も財産も失った元大公夫人」であると思われる。(169ページから170ページ)この部分は『近衛秀麿 日本のオーケストラを作った男』大野芳著 講談社(2006)の306ページからの転載だそうである。クロイツァー教授はこの後、ユダヤ人の公職追放で結局日本に逃げてきた。そして戦後1952年(昭和27)日本人の織本豊子と再婚した。

大月嬢は、大月投網子のことではないかと思われる。丁度同じころベルリンでクロイツァー教授に師事していた。大月投網子はピアニスト、フジコ・ヘミングの母である。

ファミリーヒストリー 2020/02/28(金)00:55 の放送内容 ページ1 | TVでた蔵

 

ライフ氏とライフ嬢はわからない。

「田中先生」はベルリンの「ナイトライフ」より郊外を好んだようだ。ポツダムやその近郊のグルーネヴァルトがお気に入りだったようだ。

後に「田中先生」とすみこが建てた家は東京都世田谷区東玉川。住み着いた頃はまだ郊外であった。やはり「郊外を好んだ」「田中先生」の意思がそこにはあったかもしれない。

そしてこの手紙には「田中先生」の趣味、「車の運転」にも触れられている。

「田中先生」はベルリン再訪を願われたようだ。しかしそれは叶えられることはなかった。