すみこは東京音楽学校を卒業してすぐ、1930年(昭和5)4月より、母と自分の母校、横浜共立女学校の音楽教師になった。先の結婚式の様子を書き残した東京音楽学校時代の同級生片山(菊池)愛子と一緒に勤務をしたようだ。
横浜共立女学校では、1923年(大正12)の震災で壊滅的被害を被ったが、このころ無事新しく校舎が出来、順調に授業も再開していたようだ。新しい校舎はヴォーリズ建築であり、現在文化財指定されている。
すみこはこの学校再建と、学校経営のためのチャリティーコンサートも企画運営していたようだ。
すみこは東京音楽学校の同級生たちに
「共立女学校は西洋式で、ちょっと田舎のホテルに行ったようで、気持ちのよいもの。全ての設備が行き届いております。そして家庭的で本当に暖かいホームです。クラスのみなさま、もしも可愛いお嬢様でもご誕生になられましたら、女学校は是非共立のことも選定学校の中に入れてお考え下さい」
と書き送っている。
現在伝わる校歌の編曲者の名前に「田中すみ子」「片山愛子」と二人の名前があるそうである。
すみこがいつまで共立女学校に勤務をしたのかは、現在の所はわからない。しかし1930年(昭和5)、1931年(昭和6)は間違いなく勤務していたと思う。
共立女学校音楽教師時代の写真と思われます。
前列右から6人目の和服の女性がすみこ。その隣は片山(菊池)愛子と思われます。