東京音楽学校を卒業した1930年(昭和5)、周りの「ピアノを教えてください」という要請もあり、音楽教室を開室。教室名はかねてからの考えで「すみれ会」とした。すみこのすみれ。すみれはその後すみこの「アイコン」として、いろいろな所に書かれていくことになった。
(これは戦後いろおんぷが発表された後に作られたものです)
1939年(昭和9)いよいよ待望のマイホームを建築することになった。場所は東京都世田谷区東玉川。施工会社は清水建設(当時は清水組)大友弘設計。大友弘設計の建築物は、美智子上皇后陛下のご実家(現存せず)などがある。現在現存しているものは文化財指定されているものが多い。
平山育男 松波秀子 2004「近代建築における建設会社設計部技術者の研究一大友弘の業績を通じて一」住宅総合研究財団棚究論文集No.31
http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2004/0331-0.pdf
この家はすみこと規矩士二人のアイデアがたくさん盛り込まれたと伝えられている。
とくにレッスン室は二人の自慢で、一段高いステージ付きの大広間。ここでたくさんの「サロンコンサート」や、後のすみこの活動の拠点として「発表会」「講習会」なども行われた。ピアノを弾くすみこ。何かの講習会と思う。
すみこ晩年、すみこの元アシスタントたちが集う。筆者写す。
ステージの上のすみこ
レッスン室の丸い窓はすみこのアイデアと伝わる。すみこはここの窓から「未来が見えるのよ」と言っていた。
2020年8月。筆者が写す。
関東大震災で被災をした規矩士の願いは「また大地震が来ても壊れない頑丈な家」というものであったそうだ。念入りに建築されたこの家は、戦災もくぐり抜けた頑丈な家であった。(家のことは別稿にて)
そしてこの世田谷の家でも「すみれ会」ピアノ教室を主宰。夫である東京音楽学校教授田中規矩士とともに、音楽教室経営に邁進するのであった。
自慢のレッスン室の名前は「きくの間」。規矩士の間という意味であったそうだ。そしてすみこのレッスン室は「すみれの間」。すみこの間という意味と伝えられている。
この家には規矩士の母も一緒に住んだようだ。この規矩士の母は厳格な性格であったようで、すみこは後に「嫁いびりをされてきつかった」と語った。