田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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16.たなかすみこものがたり6-2 絶対音感の話。すみこ最初の出版の話。

さて、すみこが東京音楽学校を卒業した頃、音楽教育の現場では「絶対音感」が流行っていた。

1903(明治36)年に生まれた園田清秀というピアニストがいた。彼は大分の出身だったが、音楽に目覚めて「音楽家になる!」と決心したのは中学生のころ。そして東京音楽学校に進学。夢中になって練習に励んだ。

 

その後1931(昭和6)年、フランスはパリに留学した。そこで自分は必死に練習しないと弾けないのに、子供が易々と弾いてしまうのを見て度肝を抜かれた。そして、知人宅で一家全員がいきなり「アカペラ」で合唱をした!

「何なんだ?この人たちは?」

清秀は、「これは西洋人は幼児期に音楽の中で過ごして、『絶対音』を習得しているからだ」と思い、なんとかそれを習得する方法はないかと研究。その実験第一号に選ばれたのが当時3歳だった清秀の息子の高弘だった。

この清秀の「絶対音」とは、フランス語のouie absoluteの訳で、ピアノの鍵盤上のドレミファなどの12音の音高のことだった。清秀は、「言葉のイロハを覚えると文章の読み書きができるのと同じように、12音の高さを正確に覚えれば誰でも音符を読み、演奏をし、作曲もできる」と考えたのである。

 息子、高弘は順調に音を覚え、実験成功!それを故郷大分の師範学校附属小学校でも実験。こちらも成功!

その清秀の教育法に注目した自由学園創始者の羽生もと子が清秀に、「自由学園でも是非」と懇請。音楽教室が設けられた。この音楽教室でも成功!ちなみにこの音楽教室から作曲家の林光、三善晃、指揮者の山本直純が出ている。

そして1935(昭和10)年「絶対音早教育」として、清秀の旧師にあたる笈田光吉の東京銀座のピアノ塾を借りて公開発表。これが新聞で大々的に報じられ、音楽界に大センセーションを巻き起こしたのである。ところが園田清秀は同じ年に胃がんで逝去。

園田清秀氏の死後、清秀の実験に驚嘆した笈田光吉がその後を引き受けた。

笈田光吉は1938(昭和13)年「絶対音感及和音感教育法」(シンキャウシャ)を出版。この本はベストセラーとなった。

笈田光吉は日本で初めて「絶対音感」と言った人物だそうです。(最相葉月著『絶対音感』新潮社より1998年)

 

この動きをすみこが見逃すことはなかったと思われる。園田清秀と田中規矩士、すみこ夫妻の接点は今のところわかっていないが(すみこは後年園田清秀は田中規矩士の弟子であると言っているが、確認が取れていない)

笈田光吉と田中規矩士たなかすみこ夫妻は接点がある。この3名はすべてレオニード・クロイツァーの門下生なのである。

笈田光吉と田中規矩士はベルリンでベルリン国立高等音楽院教授クロイツァーに師事。その後ユダヤ人の公職追放で日本に逃げてきたクロイツァーに田中規矩士すみこ夫妻は、2台ピアノのレッスンを受けることとなった。

(レオニード・クロイツァー(1884-1953)ロシア、サンクト・ペテルブルク出身のピアニスト、教育家。ロシアとドイツで活躍をして、ベルリン国立高等音楽院ピアノ科主任教授でもあった。しかし、ユダヤ人であったので、ナチスドイツの政権樹立で職を追われ、結局日本に逃げた。東京音楽学校などで多数の日本人音楽家を育てた日本音楽界の大恩人)

園田清秀、笈田光吉は「幼少期からピアノなどの楽器を使って訓練をすれば絶対音や絶対音感が身につく」「絶対音や絶対音感が身につくのは12歳ごろまでに訓練すれば良い」と宣伝。すみこも同じように自分の教室「すみれ会」に集う生徒たちに独自に訓練を始めたようだ。

ここで、すみこは「学童期前から訓練をした方が容易に絶対音感が習得できるのでは?」と気が付いたようだ。

しかし学童期前の幼児は楽譜を読むのがまだ困難。なかなかピアノも弾けない。そこで例えば楽譜なしでピアノが楽しめる、そして幼児が楽譜を読みやすくなるにはどうしたらよいかということを考えだしたようだ。

すみこの一番初めの著作は『新しい考案』1938(昭和13)年、自費出版

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「幼児が楽しくピアノに親しめるように」と考えたのが「げんこ」で弾くという方法。これなら楽しくピアノのレッスンが出来る!楽譜なしでもピアノが楽しめる!

げんこ弾き

www.youtube.com

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すみこは後には「固定ド」派になるのだが、この時代は「移動ド」派であったようだ。

1938年(昭和13)の自費出版の印刷などの労をとったのは、中谷孝男。

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戦前より調律師として活躍。YMOの細野晴臣の祖父ということで先ごろ有名になった。規矩士のマネージャーであったようだ。日本で一番最初にチェンバロを調律したとのことである。

マネージャー業も戦前よりやっていたようで、規矩士の同僚の高折宮次、豊増昇などのマネージャーとのことである。そしてクロイツァーのマネージャーもしていたようだ。

中谷孝男は規矩士のマネージャーだったので、その関係ですみこ著作の発行印刷もしたかもしれない。

(この中谷氏の話は、梅岡楽器サービス社長梅岡俊彦氏より教えていただきました。ありがとうございました)

この出版記念発表会は1938(昭和13)年10月9日開港記念横浜会館にて行われ、「げんこ弾き」が披露された。

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この本は時局柄「軍国歌謡」や「戦争賛美」といったものが含まれているので、戦後のすみこはあまり表沙汰にしたくなかった本かもしれない。旧宅に一冊だけ残っていた。

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この1938(昭和13)年ごろは、日中戦争が開戦していたとはいえ戦争は遠い話。戦争の悲惨さはまだそれほど認識されていなかったかもしれない。


そして1949(昭和24)年『ピアノ指使いの金條 附.新しい考案その二(おさなごのげんこびき)』という本にほぼ同じ内容で、軍国歌謡と戦争賛美を抜いたものが天元社という出版社より出版し直した。