田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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17.たなかすみこものがたり6-3 戦争中の話

さて、時局はだんだん怪しくなってくる。1941(昭和16)年12月太平洋戦争開戦。規矩士が勤務する東京音楽学校でもだんだん授業が出来なくなってくる。そして地方から東京音楽学校に入学する生徒たちの住居にも困難が生じるようになってくる。規矩士すみこ夫妻はそんな門下生を自宅に下宿をさせたりしていたようだ。

後に愛知教育大学教授となった今岡静子が「規矩士すみこ夫妻の家に下宿をした」と書いている。

 

食糧事情もだんだん悪くなってきた。

後に声楽家として昭和音楽大学教授、カーネギーホールで日本歌曲のリサイタルをした上浪明子が「規矩士すみこ夫妻にご馳走になった」と書いている。

学徒出陣前に「歓待をしてもらった」生徒もいたようだ。

それでもまだ1945(昭和20)年になる前は余裕があり、すみれ会の生徒たちと蒲田のすみこの実家にピクニックに行くことも出来たようだ。

すみこの『虹色のひらめき』によると、戦争が激化するにつれて教室を閉じる音楽教室も多かったが、すみれ会は戦争中も継続した。「庭には大きな防空壕を作って、空襲警報が鳴ると生徒と避難。庭には菜園を作って食糧難を乗り越えた。」とある。(113ページから116ページ)

古いすみれ会の生徒は「すみこ先生にサツマイモをもらった」という思い出を語った人もいるそうである。

すみこ旧宅に残されていたスクラップ帳にそのころと思われる絵があった。書いたのは推測だが当時「すみれ会」の生徒だった姫野翠(旧姓飯田)と思われる。「おじちゃん」という男性がシャベルを持ち、「すみれ会」の生徒たちが防空壕に入る絵である。

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1944(昭和19)年6月、マリアナ諸島の日本軍全滅。7月サイパン島陥落。同じ7月にはインパール作戦も大失敗。この敗戦で東條内閣総辞職。戦局はいよいよ緊迫の度合いを高め、破滅への序章が始まってしまった。11月になるといよいよ本土空襲が始まった。

1945(昭和20)年、本土空襲が本格化。すみこの実家の本店ビル「黒澤ビル」のある銀座への初空襲は1945(昭和20)年1月27日。突然の空襲に人々は呆然としていたことが伝えられている。すみこの母校泰明小学校も被災。本店ビルはこの時は大丈夫だったが、近くが大きく被災してしまった。

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東京音楽学校は上野公園が高射砲陣地となり危険。学校も授業はほとんどなく、学生は軍需工場に動員。レッスンもままならない。その中で推測ではあるが、規矩士は自宅の個人レッスンでなんとか繋いだ可能性が高い。

規矩士すみこ夫妻の家はいわば郊外。二人は「空襲は多分大丈夫」と信じてこの地に留まり続けたようだ。後にすみこが「ここは郊外だし、近所に軍需工場もないから、空襲は大丈夫だと思ったのよ」と語っている。

 しかしこの家には当時高齢であった規矩士の母が同居していた。しかも大きなブランドピアノが2台もあった。規矩士は東京音楽学校教授でもある。これらの理由もあるので、「疎開は困難」と思っていたかもしれない。

そして3月10日未明。東京大空襲ホリプロ創業者の堀威夫氏は、「横浜からも夜空が真っ赤に染まるのが見えた」と書いている。(2021年2月5日日経新聞私の履歴書)のちにすみこも「東の空が真っ赤になって怖かった」と1959(昭和34)年からアシスタントになった、にしきさゆりに語ったそうである。

 

4月15日深夜、城南大空襲で蒲田の実家も被災してしまったのであった。蒲田の実家のある辺りは工場が多く、やはり標的にされてしまったようである。

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そして8月15日を迎えた。幸いなことに規矩士すみこ夫妻の家は空襲の被害に遭わないで終戦を迎えることが出来た。